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 昭和47年11月23日、清涼寺創立15周年記念法要並びに納骨堂落慶法要が奉修されました。

この法要に際し御親教を賜りました。

『日達上人全集』に「法蓮抄」の御講義とともに、この折に詠まれた俳句が収録されています。


また、本堂前に植えられた御手植えの寒椿が毎年咲いています。


11月23日 千葉清涼寺15周年法要の砌

「堂前に 記念植樹や 寒椿」


「法蓮抄」の御講義から抜粋

 本日は、当清涼寺におきまして納骨堂が完成し、その落慶を兼ねて、当寺創立15周年のお祝いということで参りました次第でございます。


 15年前、当寺は、これは境内地が600坪ございまして、その時分 大きな農家がありました。

それから墓地は後から買いまして、これだけに立派になりました。まことにありがたいことと思っております。


 納骨堂ができて、お祝いの法要だ、お祝いだというとよその人は笑うかもしれません。この納骨堂が出来て喜んでいるんだから、死を急いでいると思うかもしれません。

しかし、この法華経の信心は、生死一如、死も生も一如である。

生まれたからと言って喜ぶべきでもなく、死んだからといって悲しんでばかりいるものでもなく、常に久遠からの我々の生命である.

御本尊に向って、南無妙法蓮華経と唱えるところは、これ「我此土安穏 天人常充満」と、自我偈に解かれておる。我々のおるこの土は、天人が常に充満し、まことに安穏の世界である。

  (日達上人全集 2-7-550)


  • 清涼寺納骨堂落慶法要の砌

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 三師塔とは、宗祖日蓮大聖人・二祖日興上人・三祖日目上人の 墓所を表す五輪塔のことです。

昭和40年10月13日に、第2代 細井珪道住職により建立されました。

三師塔裏書より:

昭和40年10月13日建立 総本山66世日達 住職弟子 珪道

(2024年撮影)


清涼寺三師塔の建立

  • 三師塔全景 2024年7月撮影

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 昭和37年7月8日、美畑山清涼寺は東京向島の名刹(めいさつ)・霊鷲山常泉寺の本堂を移築改修して「清涼寺本堂庫裡落慶法要」が総本山第66世日達上人によって奉修されました。

ここを起点として清涼寺は名実共に地域広布の法城として出発したのです。


その折の『慶讚文(けいさんもん)』には、次のような一節があります。

「夫(そ)れ清涼寺は初め千葉県幕張近傍の創価学会信徒(注1)漸(ようや)く多く増加せるにより、昭和34年1月農家を買収改造して東京常在寺の出張所となし、翌昭和35年美畑山清涼寺と公称して正式寺院の許可を得たり云々。」

  (『大日蓮』昭和37年8月号)


 「昭和34年1月に農家を買収改造して東京常在寺の出張所」とされたのは、 他でもなく当時常在寺御住職であられた御登座直前の日達上人(当時 細井精道御尊師)です。

その後間もなく、同年12月2日、日達上人は総本山第66世の法統を継がれて総本山へ晋山(しんざん)遊ばされました。


 ところで日蓮正宗の正史『富士年表』には、清涼寺の建立について、「昭和34年3月7日 日達 千葉市畑町(注2)に清涼寺を建立(寺誌)」と記されています。


 これらの記述と『清涼寺明細誌』(寺誌) 等を照合整理すると草創当時の時系列は次のようになると思います。

 まず昭和32年頃、現在の清涼寺のある土地に存在した大きな農家を買収し、 寺院の用に資する為、十畳二間の本堂をはじめ種々改修して、昭和34年3月7日、常在寺出張所として発足。

これが『富士年表』に、清涼寺の建立年代として採用されています。


 しかし寺院登記の完了が翌昭和35年であった為、昭和37年7月8日の「清涼寺本堂庫裡落慶法要」の『慶讚文』では、「翌昭和35年美畑山清涼寺と公称して正式寺院の許可を得たり」と記されています。


 いずれにしても以後現在に至るまでの「周年記念法要」はすべて、『富士年表』 の昭和34年3月7日を起点として行われてまいりました。現在特別御供養と共に進められている種々の記念事業も、3年後の令和11年2月の「創立七十周年記念法要」を目指して順調に進められています。


 以上「清涼寺草創時代」の一端を記し、御報告といたします。

      (住職 石橋頂道)


(注1) 創価学会は平成三年に破門。

(注2) 千葉市畑町は現在、千葉市花見川区畑町。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

「清涼寺創立70周年に向かって」 清涼寺草創時代

2026年9月1日号より


清涼寺本堂庫裡落慶法要(日達上人夫人・常観院夫妻) 1962年7月8日
清涼寺本堂庫裡落慶法要(日達上人夫人・常観院夫妻) 1962年7月8日

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