
住職法話
美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介
今月の指針6月号「孝養の者は爪上の土(そうじょうのど)」
あるとき仏が、「大地より重いものがあるか?」と地神に問うと、すかさず地神は、「あります!」と答えました。
仏は、「何を偏頗(へんぱ)なことを言う!この世界の一切の衆生も山川草木(さんせんそうもく)も地神が支え持っているではないか。それより重いものがあるとは一体どういうことか?」。
地神は、「確かに永い間大地を支えながら虚空を駆けめぐって少しも重いと思ったことはありません。しかし不孝者が住んでいる所だけは例外です。そこだけはあまりにも重く耐えられず、頸(くび)は痛く、腰も折れそうで、膝も力が抜け、足も引くこともできません。いっそのこと投げ捨ててしまおうかと何度思い悩んだことか。だからその大地だけはいつも揺れ動いているのです。仏に反逆した提婆達多(だいばだった)が、大地が破(わ)れて無間地獄に堕ちてしまったのはそのためです。」と。
じっと聞いていた仏は、「なるほど、なるほど。」と頷(うなず)かれました。
(『刑部左衛門尉女房御返事』1503頁【取意】)
翻(ひるがえ)って現代。孝養は前時代的なものと見なされがちです。しかし人間は親あっての存在、孝養こそ人の道として最も本源的な問題です。
『涅槃経(ねはんぎょう)』には、「末代の濁悪(じょくあく)の世には、不孝の者は大地微塵(みじん)より も多く、孝養の者は爪の上の土よりも少なし。」と説かれ、
日蓮大聖人は、
「親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。」
(『刑部左衛門尉女房御返事』1504頁)
と、孝養の難しさを喝破(かっぱ)されています。
「親孝行したい時に親は無し」、「歯が抜けて噛(か)み締める親の恩」、蓋(けだ)し名言です。
さて御書に、
「四十余年の経々を捨てゝ法華経に入らざらん人々は世間の孝不孝はしらず、仏法の中には第一の不孝の者なるべし。」
(『法門申さるべき様の事』428頁)
と説かれています。
一段深く仏法的な視点に立てば法華経に背(そむ)く現代人は、その大半が不孝 の者、大地が揺れ動くのは道理というものです。
今、世界各地で頻発(ひんぱつ)する環境破壊による自然災害や果てしない紛争は、法華経に背く謗法者が充満する大地が揺れる悲劇そのものです。
一日も早い一天四海皆帰妙法を希(こいねが)いながら妙法広布に挺身することこそ地涌の使命に他なりません。
このことを一層強く自覚して、まず身近な所から止暇断眠(しかだんみん)の精神で折伏に汗を流そうではありませんか。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年6月1日号より

今月の指針5月号「折伏の第一歩」
日蓮大聖人は、『十字(むしもち)御書』に、
「月は山よりいでて山をて(照)らす、わざわい(災)は口より出でて身をやぶ(破)る。さいわい(幸)は心よりい(出)でて我をかざ(飾)る。」
(新編1551頁)
と説かれています。
山の端(は)から出た月は、自らその山を照らします。同じ照らすにしても、そこには善悪の二面があることを知らなければなりません。
憎しみや恨みの心で言った言葉は人を傷つけ、その行動は周囲に不快感を与えます。それらは我が命に悪業を刻み、やがてわが身を苦しめる結果になるのです。
「人を呪(のろ)わば、穴二つ」、災いは口より出て身を破る、自業自得の因果です。
反対に、思いやりのある心で語る言葉は、相手を温かく包み込み、正義の心で実践する活動は善根となって命に刻まれ、やがて幸せの果報となるのです。
幸いは心より出て我が身を飾る、これも自業自得の因果です。韓国の諺(ことわざ)に、「語りかける言葉が美しければ、返ってくる言葉も美しい」というのがあります。
いくら命に仏界が具わっていようとも、それは十界互具の命です。本門の大御本尊という明鏡に向かって我が生命の本体を映し出し、それを倦(う)まず弛(たゆ)まず磨かなければ、仏性の光を放つことはできません。
「心こそ心を惑(まど)わす心」です。自分の一番近くにありながら、自分の思うに任せない我が心、心の手綱は緩めてはなりません。「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」とは、大聖人の常の誡めです。
信心とは、移ろい易い自分の心を根 本とするのではなく、三大秘法の御本尊を我が心の師と定めて深く信ずることに他なりません。正しい信心によって磨いた豊かな心から出る優しい言葉、優しい態度が他人との距離を縮めるのです。
それが「折伏の第一歩」です。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年5月1日号より

今月の指針4月号「飴と鞭」 勧誡二門
かつて日本のプロ野球で、管理野球がいいか、放任野球がいいか話題になったことがあります。
選手を厳しい管理下において、勝利に繋(つな)げようとするの管理野球。禁煙・禁酒・門限等々厳しい制約で選手を管理して質の向上を図り、チームを優勝に導こうというわけです。
それに対して放任野球は、選手のプロ意識を信頼して、あまりウルサく注意せず、のびのびやらせて試合に勝つ。もし成績が悪ければ自業自得、給料も減り、挙げ句の果ては解雇というわけです。
結果は、優劣つけがたい成績であったように記憶しています。飴と鞭、アクセルとブレーキ、いずれも一辺にかたよらない絶妙のバランス感覚が大事です。
俗諺に、「三つ叱って五つ褒(ほ)め、七つ教えてよき人にせよ」と。相反するものをうまく操るバランス感覚は、何事においても大事です。これがうまくいけば、その絶妙のバランスを人々は称賛します。
複雑な人間の心、移ろい易い人の心、つかみどころのない意馬心猿の人間の心ほどコントロールが難しいものはありません。
山の賊の退治より、心の賊のほうが難敵です。心こそ心惑わす心であるゆえに決して心の駒の手綱を許してはなりません。
仏教には、勧誡二門があります。折伏にも育成にも信心の深化にも、時に優しく時に厳しい勧誡二門の使い分け大事です。
仏教の最高峰・法華経には、一念三千の理論が明かされています。本来三千もの様々な心が具わっている命が、善悪様々な縁に触れて、次から次へと顔を出し、それが幸・不幸の結果をもたらすのです。
日蓮大聖人が顕された一閻浮提最高の三大秘法の大御本尊は、悩める心、惑える心、暴れる心、あらゆる心を磨き整えて最高の力を発揮する源泉であり原動力です。
無上の縁である御本尊に題目を唱えて、時に勧、時に誡、硬軟織り交ぜて柔軟に対応するところに、信心の喜びと折伏の楽しさ、引いては生きること自体 が楽しい自受法楽の人生が開かれていくのです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年4月1日号より

今月の指針3月号「自分に勝つ」嘉納治五郎の言葉
「人に勝つより自分に勝て!」昭和のある時期、スポ根全盛の頃、巷で流れていた主題歌の一節です。
柔道の創始者・嘉納治五郎の言葉です。「自分に勝つ!」という響きがなんともカッコよく、勇気づけられたことを懐かしく思い出します。
長じてそれがいかに難しいことか、いやというほど思い知らされました。「自分なんかダメだ」と、戦う前から白旗を揚げる不甲斐ない始末です。その度に、自分の心の弱さを知って落ち込んだものです。
しかし、こんな自分にも、「仏界」という素晴らしい命が具わっているんだと知った時の喜びは、忘れることが出来ません。
「我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。」
(『御義口伝』新編1801頁)と。
至近の睫毛(まつげ)は見えなくても、鏡に向かえば見える。
御本尊は、「仏界」という素晴らしい世界を映し出す妙法の鏡です。それをいかに磨き、輝きを増して実生活に生かして真の幸福を実現するか、そこが問題です。
『一生成仏抄』に、
「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発(お)こして、日夜朝暮(ちょうぼ)に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只(ただ)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。」
(新編46頁)
末法の私達にとって日蓮大聖人が顕(あらわ)された三大秘法の御本尊に向かって唱題する以外に仏性を磨く方法はありません。
そこに立ち塞(ふさ)がる「己心の魔」を打ち破って強靭(きょうじん)な精神力、和して流されぬ主体性、汚れに染まらぬ清浄な命を養って不動の境界を打ち立ててこそ、真に幸福な人生行路を歩むことができるのです。
立宗宣言の前夜、激しい葛藤(かっとう)の末に、「二辺の中には言うべし」との開教の決断は究極の大慈悲です。
臆病風に吹かれて懈怠(けたい)に流されがちな凡身に鞭打って倦(う)まず弛(たゆ)まず唱題に励み折伏に励む 以外に、確かな成仏と真の報恩はありません。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年3月1日号より

今月の指針2月号「志は満たすべからず」
頑健な肉体も今は昔、加齢とともに不具合が生じてきます。
愚癡一つ言わない身体をいいことに、労り(いたわり)と感謝を忘れて暴飲暴食にオーバーワーク、成れの果てが四大不順の病気です。
熟年世代が卓を囲めば健康の話に花が咲く。
文明社会の恩恵にあずかりながら運動不足を歎く声、飽食に生きて栄養過多に陥(おちい)る現代病患者の嘆き、早期発見には人間ドックが何よりと得意満面に話す御仁(ごじん)、サプリメントは転ばぬ先の杖とばかりに御託(ごたく)を並べる人等々。
昔から、腹八分目が実践できれば医者要らず、健康と長生きが保証されるとか。
しかし食い意地の張った凡夫には難行苦行です。目前の御馳走につい箸が延び、自然に口が開いてしまう哀しさ。雰囲気に酔って今日一日くらいは・・・、などと自分に言い訳しながら、つい食べ過ぎてしまう凡夫の浅はかさ。
膨らんだおなかを人知れず撫でながら自責の念に駆られれば、折角の御馳走も興醒(きょうざ)めです。
閑話休題。中国の古典『礼記』に云く、
「傲(おご)りは 長(ちょう)ずべからず。欲は 従(ほしいまま)にすべからず。志は満たすべからず。楽しみは極(きわ)むべからず。」
「志は満たすべからず」とは、敢えて志を満たさないのが更なる飛躍に繋(つなが)る賢明な生き方だと説いています。
一方、志を立て目標を掲げて最善を尽くしても達成できなかった場合、却ってその悔しさがバネとなって不屈の精神を呼び起こし、不断の努力に繋がって飛躍と成功を勝ち取ることができるのです。
失意と逆境の時にこそ不屈の信心を呼び起こそう。
倦(う)まず弛(たゆ)まず勤行・唱題に打ち込めば、傲(おご)りのない無欲で瑞々(みずみず)しい命が輝き、変毒為薬(へんどくいやく)・転厄為幸(てんやくいこう)の功徳が湧いてきて、力強い不動の人生を歩むことができることを肝に銘じたいものです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年2月1日号より

年頭の辞 「育成こそ躍進の力」
立宗七百七十四年、「団結行動の年」、明けましておめでとうございます。
折伏は、広布前進の力です。しかしそれは育成あってこその力です。
半信半疑の初信者に対して、わが初信時代に思いを馳せながら根気よく基本を教えることが尊いのです。
やがてそこに初信の功徳があらわれ、信心の喜びと確信を人に語る姿を見る喜びは、何物にも替えがたい折伏親の冥利です。
ところで育成は、初信者に限ったことではありません。
休眠信徒に対する覚醒と再起を促す激励家訪、次代・次次代を担う青少年の人材育成、各家庭の確実な法統相続に向けた不断の努力、これらはすべて広布へ繋(つな)がる育成の大事です。
ところで人に物を教える以上、曖昧(あいまい)な知識、いい加減な信心姿勢は許されません。
率先垂範、わが身を正して基本をしっかり学び直すことも必要です。それは自らの信心の垢(あか)を洗い流し、我流の信心を見直すいい機会でもあります。
逆縁のわが身が正法に目覚めた懐かしい思い出。
不軽菩薩の精神で根気よく折伏してくれた白烏(はくう)の恩。
その大恩を今こそ果敢な折伏と粘り強い育成の実践で、謗法の害毒に喘(あえ)ぐ黒烏に返していき たいものです。
さて本年は、旧年の『活動充実』から心機一転『団結行動』が年間を貫く活動方針です。
弛(たゆ)まぬ勤行・唱題の励行で命を磨けば、わが身が折伏に奮い立ちます。
御講・登山・講習会への参加は、信心練磨と人材育成の絶好の機会です。活発な座談会は異体同心の輪を広げます。
三つの実践テーマを団結行動の基本に据(す)えて、互に声をかけあい共々に広布の大道を歩んでまいりましょう。
皆様の御健勝と信行増進を心より祈念し、新年の辞といたします。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
年頭の辞 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年1月1日号よ り

年頭の辞 「育成こそ躍進の力」 2026年1月1日
今月の指針12月号「運命は変えられる」
「不幸な運命」、「悪い運命の星のもと」など、とかく「運命」という言葉には、過去世からの定めという暗く固定的なイメージがつきまといます。
そこには人間の力では如何ともしがたいあきらめの思想が支配的です。仏教でいう宿命も宿業もほぼ同義です。
仏法でも世間でも、原因結果の法則を説きますが、仏法のそれは遥かに深く広く厳しい因果の道理です。
そのうえ仏教では過去・現在・未来の三世を貫く因果の間に「縁」を説くのが大きな特徴です。
例えば木は木でも、御本尊に謹刻される木もあれば、踏み板になって踏みつけられたり、薪になって燃やされてしまう木もあります。それはみな縁の違いによるのです。
ところで人間の一生が、過去の因だけですべて決まるとしたら、それは単なる運命論であり宿命論です。
しかし人間には、自ら考え行動する力が具わっています。
だからこそ正法に巡り会う「縁」さえ整えば、宿命を転換し、変毒為薬(へんどくいやく)して真の幸福の境涯を築くことができるのです。
元来仏教には、勝劣浅深があります。いま時代は、五濁爛漫(ごじょくらんまん)の末法です。
そこ生まれ合わせた煩悩具縛(ぼんのうぐばく)の荒凡夫(あらぼんぷ)は、法華経の文底に説かれる南無妙法蓮華経の御本尊という無上の縁によってのみ真の成仏が叶うことを忘れてはなりません。
『上野殿御返事』に曰く、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。只南無妙法蓮華経なるべし。」
(新編1219頁)と。
また『聖愚問答抄』に曰く
「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」
(新編406頁)
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年12月1日号より

今月の指針11月号「生涯青春」
「年を重ねただけでは 人は老いない
理想を失う時に 初めて老いが来る
人は信念と共に若く 疑惑と共に老いる
人は自信と共若く 恐怖と共に老いる
希望ある限り若く 失望と共に朽ちる」
(「青春の詩」サミエル・ウルマン)
青春は、春を青に当てた中国の五行説(ごぎょうせつ)に由来します。
年若い世代は、人生の春であると同時に未熟者の青二才、しかしそれは伸びしろの大きい未完の大器でもあります。草木の芽が「張る」にも通じ、気候の「晴る」にも通じます。
英語のスプリングも飛び跳ねるが原意とか。いずれにしても青春は、青葉、若葉のように若々しく、生命力に溢れ、躍動感に満ちた たった一度の素晴らしい年代に違いありません。
そのかけがえのない青春も加齢と共に理想を失い、信念や自信が失(う)せて死の恐怖にたじろぐようになると老化の始まりです。
「青春の詩」の作者サミエル・ウルマンは、青春とは人生のある期間を指すのではなく「心の様相」のことだと喝破しています。
確かに世の中には死んだように生きている若者も、老けた若者もいます。反対に、生涯現役をモットーに、人生の晩年を謳歌(おうか)している若々しい老人がいることも確かです。
ところで、生涯青春・生涯現役は万人の願いです。しかし人は死を治(じ)することはできません。歳月は、冷徹に時を刻み、やがて人は年老い病んで人生最期の臨終を迎えるのです。
この世に生を享(う)けた以上、誰しも四苦を避けることはできません。一日生きるということは、一日死に近づいたということ。そうした現実の中で、いかに生・老・病・死を克服するか、これが人生の重要なテーマであり、仏教の出発点もそこにあります。
大聖人は、不退転の妙法の信心に裏付けられた常・楽・我・浄の人生こそ、成仏の境界だと説いています。
生死の底流に滔々(とうとう)と流れる永遠の生命の大河を確信し、生きること自体を楽しむ自受法楽の境界こそが人生の醍醐味です。
希望と共に若く、勇気と共に輝き続ける人生、それは三大秘法の大御本尊と共にあり、不退転の信心の中にあります。
不老不死とは、いつまでも若々しく永遠の命を確信することに他なりません。その実証は、折伏の強力な武器となり、動執生疑から断疑生信へ繋(つな)がる折伏の力に他なりません。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年11月1日号より
今月の指針10月号「朝三暮四(ちょうさんぼし)」
「朝三暮四」は、『莊子』(そうし)にある有名な故事です。
「宋の狙公(そこう)が、飼っていた猿たちに茅(かや)の実を、朝は三つ晩に四 つ与えたら一斉に怒り出しました。そこで一計を案じた俎公は、朝に四つ晩に三つ与えると、猿たちは一斉に喜びました。(『斉物論』第二)
目先の事に惑(まど)わされて喜ぶ浅智慧です。しかし目先の利害に目が眩(くら)んで一喜一憂し、外見に惑わされて本質を見失う猿の浅智慧を笑う資格は人間にありません。
『佐渡御書』には次のように仰せです。
「魚は釣り針を警戒して深く潜(もぐ)る、しかし餌に騙(だま)されて針に食らいつく。鳥は捕獲を恐れて高い梢(こずえ)に避難しても網に引っかかる。その愚かさは人間だって同じ、目先の物事に幻惑されて大事な命を落とすのです。」(取意)
えてして人間は、目先のことにとらわれ、表面の華やかさに目が眩(くら)み、優しい言葉や軟らかい身のこなしに誤魔化されて泣きを見ることが少なくありません。だからこそ世の中に○○詐欺や××商法が横行するのでしょう。麻薬だって同じ、最初の快感に陶酔(とうすい)して、ついついのめり込んで終(つい)には身の破滅です。
悪縁充満する悪世末法で強く正しく生きて行くためには、物の本質を見抜く観察眼と先を見通す智慧を養うことが不可欠です。
大聖人は、『観心本尊抄』に、
「大乗を学する者は肉眼(にくげん)有りと雖(いえど)も名づけて仏眼(ぶつげん)と為(な)す。」
(新編647頁)
と説かれて、正しい信心で磨けば肉眼も仏眼となると仰せです。
また『御義口伝』には、
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。」
(新編1775頁)と。
三大秘法の大御本尊への純粋無垢な信心は、以信代慧の智慧と六根清浄の功徳を身に具える末法最善の修行です。
うわべの華やかさに執(とら)われず、本質を見抜く確かな眼を養って悪縁を振り払い、自ら境界を大きく開いていくことが、引いては下種折伏に繋(つな)がることを忘れてはなりません。
炎暑も終息の十月です。本門戒壇の大御本尊御図顕の月、お会式の月。いよいよ信心の炎を燃やし、御報恩の誠を尽くしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年10月1日号より
今月の指針9月号「和顔施(わげんせ)」 四十を過ぎたら自分の顔に責任を持て!
布施とは、印度の言葉「ダーナ」の漢訳(音訳は檀那)です。そこから連想するのはまずお金や物、それも大事な布施行の一つです。しかしそれだけではありません。金品が無 くても相手に喜びを与えることのできる布施もあるのです。
この「無財の施」の一つが「和顔施」です。
かのアメリカの大統領・リンカーンは、「四十を過ぎたら自分の顔に責任を持て!」という有名な言葉を残しています。生まれつきの顔は親譲(ゆず)り、でも四十を越えたら自分の顔に責任を持つことが大事、人生模様が刻まれた顔は、正に自己責任の産物です。
四十年の人生は、そのまま自分の顔に表れてくるのです。
なるほど意地の悪い人は、何となく意地悪な顔?に見えてきます。怒りっぽい人の顔は、どことなく怒り顔?。性格のきつい人は、何となくそんな顔になってくるから不思議です。
決して他人事ではありません。「人の振(ふ)り見て、我が振りを直せ」です。果たして自分は、普段からどんな顔をして人に接しているか、改めて鏡を見るのも大事です。
心にもなく不機嫌な顔をして、周囲の人に不愉快な思いをさせてはいないか。笑顔が消えた渋い顔で不快な思いを与えていないか等々。
いずれにしても日頃から、にこやかな顔で人と接するように努めることが大切です。にこやかな顔、笑(え)みを湛(たた)えた顔、優しい顔、それは人の心を和(なご)ませる一銭もいらない無財の施しです。
そういえば昔、「百万ドルの笑顔」という言葉がありました。時と場合によっては「百万ドル」もの価値があるのです。
ところで日蓮大聖人は、
「親によき物を与へんと思ひて、せめてやる事 な(無)くば一日に二三度え(笑)みて向かへとなり。」
(『上野殿御消息』新編920頁)
と、笑顔の効用を説かれています。一日に二、三度笑顔を振り向けるだけでも立派な親孝行、何と素晴らしいことでしょう!
「功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり、又六根清浄なり」
(『御義口伝』新編1775頁)
純粋な信心で眼耳鼻舌身意の六根を磨けば、笑顔がこぼれ円滑な人間関係、心豊かな人生が広がること請(う)け合(あ)いです。笑顔は折伏実践の大切な心得の一つです。たかが笑顔、されど笑顔。信心根本に笑顔を絶やさず、飽(あ)くなき挑戦、弛(たゆ)まぬ努力が肝心です。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年9月1日号より