
住職法話
美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介
今月の指針10月号「上根に望めても卑下(ひげ)すべからず」 10月は御会式
『持妙法華問答抄』に云はく、
「上根に望めても卑下(ひげ)すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても驕慢(きょうまん)ならざれ。上根も も(漏)るゝ事あり、心をいたさざるが故に」
(新編1298頁)
仏教の最高峰・法華経には、一念三千という十界皆成・平等大慧の大慈悲が説かれています。あらゆる人の命に秘められた仏種は、正しく磨きさえすれば最高の力を発揮する、磨けば光る道理です。法華経の真髄・南無妙法蓮華経の唱題によって蘇生の力が沸き上がり、一切が円満成就するのです。
他人の才能や生活を見て羨(うらや)み自信を失うのは、よくある話です。
福沢諭吉は、『心訓』(しんくん)に「世の中で一番みにく(醜)いことは他人の生活を羨むことである」と説いています。
私達の信心に卑下は無縁です。「上根に望めても卑下すべからず」と仰せの通りです。失意の時、絶望の時、自信喪失の時にこそ唱題し、元気ハツラツ前向きに人生を歩む、これが信心の真骨頂(しんこっちょう)です。
この対極が慢心です。事業も順風満帆(まんぱん)、肩で風切る勢いの時にこそ、心のスキが生れ、慢心が芽を出し、そこを魔に狙(ねら)われるのです。才能におぼれ、傲慢(ごうまん)に なれば感謝が薄れ、報恩を忘れて信心を失う。いかに広大無辺な仏の慈悲といえども、指の隙間から水が漏れ出すように逃げていくのです。
げに恐ろしきは慢心、要注意の代物(しろもの)です。
「心をいた(致)さざる」とは、真摯(しんし)に求めない懈怠(けたい)の信心です。三大秘法の大御本尊に対する勤行・唱題が、一生成仏の鍵を握っています。
出自(しゅつじ)や学歴や貴賤上下(きせんじょうげ)を問わず、下根も上根も生涯求め抜く信心こそ最も大事です。
信心が進むほどに逆風が吹く、スピードを上げれば上げるほど更に強く吹く、前に進んでいる証拠です。
どこまでも謙虚不動(けんきょふどう)の信心を貫き、生命力旺盛な生活を味わいながら、堂々と人生の幸福街道を歩んでいきたいものです。
十月といえば伝統の御会式です。平生(へいぜい)つちかった信心の粋(すい)を集めて団結し、勇往邁進(ゆうおうまいしん)、御報恩の誠を捧げましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年10月1日号より

今月の指針9月号「信心の貧しさこそ真の貧しさ」 御難会の月です
『四菩薩造立抄』に云はく
「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以(もっ)て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり。」
(新編 1369頁)
烏兎怱怱(うとそうそう)。本年後半もアッという間に2か月が逝(い)き、御難会(ごなんえ)の月を迎えました。
冒頭に掲(かか)げた御文は、御本仏・日蓮大聖人の広大無辺な御境界を披歴(ひれき)して余りある御書の一節です。
煩悩と欲望が渦巻(うずま)く五濁爛漫(ごじょくらんまん)の悪世末法。和光同塵(わこうどうじん)して出現遊ばされた久遠元初の御本仏大聖人こそ、末法の闇(やみ)を照らす大光明です。
しかしいかに偉大な光でも無知蒙昧(もうまい)な末法の荒凡夫の目には入らぬ悲しさ、彼らは挙(こぞ)って怒りを露(あら)わに顔を顰(しか)め、拳(こぶし)を振り上げて反発してきたのです。
しかし大聖人にとってそれは、ありがたい限りの善知識であり、法華身読の証明であり、無上の法悦でした。悪人もまた善知識なり。打つなら打て、その手を成仏せしめん! 蹴(け)るなら蹴れ、その足を成仏せしめん!
御本仏の面目躍如(めんもくやくじょ)たるお言葉です。
流罪地・佐渡や隠棲(いんせい)地・身延の御生活は、八寒(はっかん)を現身に感じ、雪を食(じき)とするほどの極限の生活、世間的には日本第一の極貧(ごくひん)に違いありません。
しかし一転これを仏法の目で拝すれば、取りも直さず一閻浮提第一の富める人であり、凡眼凡智の遥(はる)かに及ばぬ慈悲の極致です。
大聖人の破邪顕正の法鼓(ほっく)は日を追うごとに響きを増し、それに呼応して法難の激しさも倍加していきました。そのクライマックスが竜の口の頸(くび)の座です。
そ こを境に真実久遠の御姿を顕し、佐渡から身延へ、そこで遂に出世の本懐である戒壇の大御本尊の御図顕となったのです。
万機万縁にして一閻浮提総与の大御本尊の御出現です。
「身の貧しさより、信心の貧しさを歎(なげ)く」。
御先師の誡(いまし)めをしっかりと身にたいし、御難会の月に相応(ふさわ)しく奮(ふる)い立ち、順逆二縁を救う大乗菩薩の精神で折伏を実践し、もって御報恩の誠を果たしてまいりましょう。

今月の指針8月号「一を聞いて十を知る」 マンゴーの美味しい季節
マンゴーの美味しい季節です。
ある経典に次のような話があります。
主人の使いで市場にやって来た召使いが、美味しそうなマンゴーの品定めをしています。するとすかさず、「ここのマンゴーは、粒よりでどれも皆上等で美味しいよ!」と店の主人の声がかかります。
少し愚かで疑い深い召使いには、俄(にわ)かには信じられません。
「一つ試食してみてご覧よ。そうすれば本当に美味しいかどうか分かるから」
言われるままに手に取って食べてみると確かに美味い、しかし待てよ! どれもこれも皆美味とは限らない。そう考えた召使いは、一つ一つみんな囓(かじ)って、齧り跡のついたマンゴーばかりを五、六個嬉しそうに持ち帰ったそうな。
それを見た主人のあきれ顔が眼に浮かぶようです。
極樂の楽しさ、地獄の苦しさをいくら話して聞かせても一向に信じない。この目で確かめなければ、といって自ら命を断った凡夫の愚かさを説いた譬(たと)え話です。
日蓮大聖人は、過去を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知りたければ現在の因を見よ、と教えられています。
三世永遠の生命とはいえ、無始の過去も無終の未来も、全て現在の命の中に凝縮(ぎょうしゅく)されています。過去の罪障消滅も未来の成仏も、すべて現在の修行いかんにかかっています。
一々みな囓ってみなくても、一つ味わえばあとは推(お)して知るべし、「一を聞いて十を知る(『論語』公冶長)」賢さが大切です。
日蓮大聖人の教えを素直に信じ、三大秘法の大御本尊に南無妙法蓮華経と唱える直道(じきどう)に、私達の真の成仏、真の幸福の果実があることを深く確信したいものです。
真夏の炎天下、折伏育成に勤(いそ)しむ地涌の同志の額に流れる汗は、自他ともに真の幸福をもたらす現世安穏・後生善処の尊い汗に違いありません。
お互いに声を掛け合い、誘い合って更なる精進重ねてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年8月1日号より

今月の指針7月号「魔と鬼と」 宿命転換のチャンス
「世皆正 に背き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。」
(新編234頁)
『立正安国論』の有名な一節です。
世の乱れは宗教の乱れ、それが仏教の乱れに直結して魔が競い鬼神が徘徊(はいかい)して災難が打ち続く道理です。
魔も鬼も奪命者とか奪功徳者等と訳されます。
私達の正しい信心を妨害し、幸福な生活を乱し、病気や災害の原因となるものです。
三障四魔の魔は、障礙(しょうげ)・攪乱(かくらん)・破壊などと訳されます。
しかし表向きは、仏身・菩薩 身・天・人・鬼畜・父母・妻子・兄弟・師匠・朋友・美男・美女、更には財貨や飲食・畑宅などとして現れます。その誘惑に騙(だま)されるのです。
人間の心のスキを狙(ねら)い、弱味につけ込んで生命のリズムを狂わせる、これほど恐ろしいものはありません。
一方鬼は、餓鬼とか鬼神とも訳されます。
餓鬼界に住む夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)・餓鬼など、人間の目には見えない力を持って生命力を奪います。しかしひとたび妙法の光に照らされれば、正法守護の「善鬼」ともなるところが魔との大きな違いです。魔は「善魔」とはなりません。
御書に、
「鬼入りて人の命をうば(奪)ふ。鬼をば奪命者といふ。魔入りて功徳をうば(奪)ふ。魔をば奪功徳者とい(言)ふ。」
(『木絵二像開眼の事』新編638頁)
と。
鬼は奪命者、魔は奪功徳者。今世の命を破壊するだけの鬼に対して、魔は生命の奥深く入り込んで三世の功徳までも破壊し尽くす、より根源的で恐ろしいものなのです。
そういえば鬼には、豆に打たれてほうほうの体(てい)で退散する可愛さもあります。
牛の角と虎柄のパンツは、鬼のイメージキャラクター、何とも愛嬌のあるキャラクターです。これは、鬼の出入り口が丑寅(北東)の不吉な鬼門であることに由来しているとか。
鬼手仏心、外面は恐ろしい鬼面でも内心には深い慈悲が宿っている真の優しさです。
心を鬼にする、鬼コーチ、練習の鬼、折伏の鬼等々。どれも厳しさの裏に深い慈悲が宿るいい言葉です。
いずれにしても魔も鬼も私達の心の隙を虎視眈々(こしたんたん) と狙(ねら)っています。
その中で特に見過ごしやすいのが「己心の魔」、手ごわい相手です。信心が深まるほど激しさを増すのもこれらの特徴です。障魔に怯(ひる)まず敢然と立ち向かう勇気をもって乗り越えたいものです。
そこに人間の成長もあり、宿命転換のチャンスもあります。
正邪を見透す眼力、魔にも鬼にも屈しない信力、苦難を克服する行力、堅固な信心でこれらの力を養えば、何物にも動じない不動の絶対的幸福の境涯を確立すること請け合いです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年7月1日号より

今月の指針6月号「孝養の者は爪上の土(そうじょうのど)」 一天四海皆帰妙法
あるとき仏が、「大地より重いものがあるか?」と地神に問うと、すかさず地神は、「あります!」と答えました。
仏は、「何を偏頗(へんぱ)なことを言う!この世界の一切の衆生も山川草木(さんせんそうもく)も地神が支え持っているではないか。それより重いものがあるとは一体どういうことか?」。
地神は、「確かに永い間大地を支えながら虚空を駆けめぐって少しも重いと思ったことはありません。しかし不孝者が住んでいる所だけは例外です。そこだけはあまりにも重く耐えられず、頸(くび)は痛く、腰も折れそうで、膝も力が抜け、足も引くこともできません。いっそのこと投げ捨ててしまおうかと何度思い悩んだことか。だからその大地だけはいつも揺れ動いているのです。仏に反逆した提婆達多(だいばだった)が、大地が破(わ)れて無間地獄に堕ちてしまったのはそのためです。」と。
じっと聞いていた仏は、「なるほど、なるほど。」と頷(うなず)かれました。
(『刑部左衛門尉女房御返事』1503頁【取意】)
翻(ひるがえ)って現代。孝養は前時代的なものと見なされがちです。しかし人間は親あっての存在、孝養こそ人の道として最も本源的な問題です。
『涅槃経(ねはんぎょう)』には、「末代の濁悪(じょくあく)の世には、不孝の者は大地微塵(みじん)よりも多く、孝養の者は爪の上の土よりも少なし。」と説かれ、
日蓮大聖人は、
「親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。」
(『刑部左衛門尉女房御返事』1504頁)
と、孝養の難しさを喝破(かっぱ)されています。
「親孝行したい時に親は無し」、「歯が抜けて噛(か)み締める親の恩」、蓋(けだ)し名言です。
さて御書に、
「四十余年の経々を捨てゝ法華経に入らざらん人々は世間の孝不孝はしらず、仏法の中には第一の不孝の者なるべし。」
(『法門申さるべき様の事』428頁)
と説かれています。
一段深く仏法的な視点に立てば法華経に背(そむ)く現代人は、その大半が不孝の者、大地が揺れ動くのは道理というものです。
今、世界各地で頻発(ひんぱつ)する環境破壊による自然災害や果てしない紛争は、法華経に背く謗法者が充満する大地が揺れる悲劇そのものです。
一日も早い一天四海皆帰妙法を希(こいねが)いながら妙法広布に挺身することこそ地涌の使命に他なりません。
このことを一層強く自覚して、まず身近な所から止暇断眠(しかだんみん)の精神で折伏に汗を流そうではありませんか。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年6月1日号より


今月の指針5月号「 折伏の第一歩」
日蓮大聖人は、『十字(むしもち)御書』に、
「月は山よりいでて山をて(照)らす、わざわい(災)は口より出でて身をやぶ(破)る。さいわい(幸)は心よりい(出)でて我をかざ(飾)る。」
(新編1551頁)
と説かれています。
山の端(は)から出た月は、自らその山を照らします。同じ照らすにしても、そこには善悪の二面があることを知らなければなりません。
憎しみや恨みの心で言った言葉は人を傷つけ、その行動は周囲に不快感を与えます。それらは我が命に悪業を刻み、やがてわが身を苦しめる結果になるのです。
「人を呪(のろ)わば、穴二つ」、災いは口より出て身を破る、自業自得の因果です。
反対に、思いやりのある心で語る言葉は、相手を温かく包み込み、正義の心で実践する活動は善根となって命に刻まれ、やがて幸せの果報となるのです。
幸いは心より出て我が身を飾る、これも自業自得の因果です。韓国の諺(ことわざ)に、「語りかける言葉が美しければ、返ってくる言葉も美しい」というのがあります。
いくら命に仏界が具わっていようとも、それは十界互具の命です。本門の大御本尊という明鏡に向かって我が生命の本体を映し出し、それを倦(う)まず弛(たゆ)まず磨かなければ、仏性の光を放つことはできません。
「心こそ心を惑(まど)わす心」です。自分の一番近くにありながら、自分の思うに任せない我が心、心の手綱は緩めてはなりません。「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」とは、大聖人の常の誡めです。
信心とは、移ろい易い自分の心を根本とするのではなく、三大秘法の御本尊を我が心の師と定めて深く信ずることに他なりません。正しい信心によって磨いた豊かな心から出る優しい言葉、優しい態度が他人との距離を縮めるのです。
それが「折伏の第一歩」です。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年5月1日号より

今月の指針4月号「飴と鞭」 勧誡二門
かつて日本のプロ野球で、管理野球がいいか、放任野球がいいか話題になったことがあります。
選手を厳しい管理下において、勝利に繋(つな)げようとするの管理野球。禁煙・禁酒・門限等々厳しい制約で選手を管理して質の向上を図り、チームを優勝に導こうというわけです。
それに対して放任野球は、選手のプロ意識を信頼して、あまりウルサく注意せず、のびのびやらせて試合に勝つ。もし成績が悪ければ自業自得、給料も減り、挙げ句の果ては解雇というわけです。
結果は、優劣つけがたい成績であったよう に記憶しています。飴と鞭、アクセルとブレーキ、いずれも一辺にかたよらない絶妙のバランス感覚が大事です。
俗諺に、「三つ叱って五つ褒(ほ)め、七つ教えてよき人にせよ」と。相反するものをうまく操るバランス感覚は、何事においても大事です。これがうまくいけば、その絶妙のバランスを人々は称賛します。
複雑な人間の心、移ろい易い人の心、つかみどころのない意馬心猿の人間の心ほどコントロールが難しいものはありません。
山の賊の退治より、心の賊のほうが難敵です。心こそ心惑わす心であるゆえに決して心の駒の手綱を許してはなりません。
仏教には、勧誡二門があります。折伏にも育成にも信心の深化にも、時に優しく時に厳しい勧誡二門の使い分け大事です。
仏教の最高峰・法華経には、一念三千の理論が明かされています。本来三千もの様々な心が具わっている命が、善悪様々な縁に触れて、次から次へと 顔を出し、それが幸・不幸の結果をもたらすのです。
日蓮大聖人が顕された一閻浮提最高の三大秘法の大御本尊は、悩める心、惑える心、暴れる心、あらゆる心を磨き整えて最高の力を発揮する源泉であり原動力です。
無上の縁である御本尊に題目を唱えて、時に勧、時に誡、硬軟織り交ぜて柔軟に対応するところに、信心の喜びと折伏の楽しさ、引いては生きること自体が楽しい自受法楽の人生が開かれていくのです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2026年4月1日号より

今月の指針3月号「自分に勝つ」嘉納治五郎の言葉
「人に勝つより自分に勝て!」昭和のある時期、スポ根全盛の頃、巷で流れていた主題歌の一節です。
柔道の創始者・嘉納治五郎の言葉です。「自分に勝つ!」という響きがなんともカッコよく、勇気づけられたことを懐かしく思い出します。
長じてそれがいかに難しいことか、いやというほど思い知らされました。「自分なんかダメだ」と、戦う前から白旗を揚げる不甲斐ない始末です。その度に、自分の心の弱さを知って落ち込んだものです。



