top of page
DSC04311.jpg

​住職法話

​美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介

今月の指針9月号「信心の貧しさこそ真の貧しさ」 御難会の月です

 『四菩薩造立抄』に云はく

「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども、仏法を以(もっ)て論ずれば一閻浮提第一の富める者なり。」

  (新編 1369頁)


 烏兎怱怱(うとそうそう)。本年後半もアッという間に2か月が逝(い)き、御難会(ごなんえ)の月を迎えました。

冒頭に掲(かか)げた御文は、御本仏・日蓮大聖人の広大無辺な御境界を披歴(ひれき)して余りある御書の一節です。


 煩悩と欲望が渦巻(うずま)く五濁爛漫(ごじょくらんまん)の悪世末法。和光同塵(わこうどうじん)して出現遊ばされた久遠元初の御本仏大聖人こそ、末法の闇(やみ)を照らす大光明です。

しかしいかに偉大な光でも無知蒙昧(もうまい)な末法の荒凡夫の目には入らぬ悲しさ、彼らは挙(こぞ)って怒りを露(あら)わに顔を顰(しか)め、拳(こぶし)を振り上げて反発してきたのです。


 しかし大聖人にとってそれは、ありがたい限りの善知識であり、法華身読の証明であり、無上の法悦でした。悪人もまた善知識なり。打つなら打て、その手を成仏せしめん! 蹴(け)るなら蹴れ、その足を成仏せしめん! 

御本仏の面目躍如(めんもくやくじょ)たるお言葉です。


 流罪地・佐渡や隠棲(いんせい)地・身延の御生活は、八寒(はっかん)を現身に感じ、雪を食(じき)とするほどの極限の生活、世間的には日本第一の極貧(ごくひん)に違いありません。

しかし一転これを仏法の目で拝すれば、取りも直さず一閻浮提第一の富める人であり、凡眼凡智の遥(はる)かに及ばぬ慈悲の極致です。


 大聖人の破邪顕正の法鼓(ほっく)は日を追うごとに響きを増し、それに呼応して法難の激しさも倍加していきました。そのクライマックスが竜の口の頸(くび)の座です。

そこを境に真実久遠の御姿を顕し、佐渡から身延へ、そこで遂に出世の本懐である戒壇の大御本尊の御図顕となったのです。

万機万縁にして一閻浮提総与の大御本尊の御出現です。


 「身の貧しさより、信心の貧しさを歎(なげ)く」。

御先師の誡(いまし)めをしっかりと身にたいし、御難会の月に相応(ふさわ)しく奮(ふる)い立ち、順逆二縁を救う大乗菩薩の精神で折伏を実践し、もって御報恩の誠を果たしてまいりましょう。


今月の指針9月号「信心の貧しさこそ真の貧�しさ」
今月の指針9月号「信心の貧しさこそ真の貧しさ」



今月の指針8月号「一を聞いて十を知る」 マンゴーの美味しい季節

 マンゴーの美味しい季節です。

 ある経典に次のような話があります。

 主人の使いで市場にやって来た召使いが、美味しそうなマンゴーの品定めをしています。するとすかさず、「ここのマンゴーは、粒よりでどれも皆上等で美味しいよ!」と店の主人の声がかかります。

少し愚かで疑い深い召使いには、俄(にわ)かには信じられません。

「一つ試食してみてご覧よ。そうすれば本当に美味しいかどうか分かるから」

言われるままに手に取って食べてみると確かに美味い、しかし待てよ! どれもこれも皆美味とは限らない。そう考えた召使いは、一つ一つみんな囓(かじ)って、齧り跡のついたマンゴーばかりを五、六個嬉しそうに持ち帰ったそうな。

それを見た主人のあきれ顔が眼に浮かぶようです。


 極樂の楽しさ、地獄の苦しさをいくら話して聞かせても一向に信じない。この目で確かめなければ、といって自ら命を断った凡夫の愚かさを説いた譬(たと)え話です。


 日蓮大聖人は、過去を知らんと欲せば現在の果を見よ、未来の果を知りたければ現在の因を見よ、と教えられています。

三世永遠の生命とはいえ、無始の過去も無終の未来も、全て現在の命の中に凝縮(ぎょうしゅく)されています。過去の罪障消滅も未来の成仏も、すべて現在の修行いかんにかかっています。

一々みな囓ってみなくても、一つ味わえばあとは推(お)して知るべし、「一を聞いて十を知る(『論語』公冶長)」賢さが大切です。


 日蓮大聖人の教えを素直に信じ、三大秘法の大御本尊に南無妙法蓮華経と唱える直道(じきどう)に、私達の真の成仏、真の幸福の果実があることを深く確信したいものです。 


 真夏の炎天下、折伏育成に勤(いそ)しむ地涌の同志の額に流れる汗は、自他ともに真の幸福をもたらす現世安穏・後生善処の尊い汗に違いありません。

お互いに声を掛け合い、誘い合って更なる精進重ねてまいりましょう。 


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年8月1日号より


今月の指針8月号「一を聞いて十を知る」
今月の指針8月号「一を聞いて十を知る」


今月の指針7月号「魔と鬼と」 宿命転換のチャンス

 「世皆正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。」

  (新編234頁)


 『立正安国論』の有名な一節です。

世の乱れは宗教の乱れ、それが仏教の乱れに直結して魔が競い鬼神が徘徊(はいかい)して災難が打ち続く道理です。


 魔も鬼も奪命者とか奪功徳者等と訳されます。

私達の正しい信心を妨害し、幸福な生活を乱し、病気や災害の原因となるものです。


 三障四魔の魔は、障礙(しょうげ)・攪乱(かくらん)・破壊などと訳されます。

しかし表向きは、仏身・菩薩身・天・人・鬼畜・父母・妻子・兄弟・師匠・朋友・美男・美女、更には財貨や飲食・畑宅などとして現れます。その誘惑に騙(だま)されるのです。

人間の心のスキを狙(ねら)い、弱味につけ込んで生命のリズムを狂わせる、これほど恐ろしいものはありません。


 一方鬼は、餓鬼とか鬼神とも訳されます。

餓鬼界に住む夜叉(やしゃ)・羅刹(らせつ)・餓鬼など、人間の目には見えない力を持って生命力を奪います。しかしひとたび妙法の光に照らされれば、正法守護の「善鬼」ともなるところが魔との大きな違いです。魔は「善魔」とはなりません。


 御書に、

「鬼入りて人の命をうば(奪)ふ。鬼をば奪命者といふ。魔入りて功徳をうば(奪)ふ。魔をば奪功徳者とい(言)ふ。」

  (『木絵二像開眼の事』新編638頁)

と。

鬼は奪命者、魔は奪功徳者。今世の命を破壊するだけの鬼に対して、魔は生命の奥深く入り込んで三世の功徳までも破壊し尽くす、より根源的で恐ろしいものなのです。


 そういえば鬼には、豆に打たれてほうほうの体(てい)で退散する可愛さもあります。

牛の角と虎柄のパンツは、鬼のイメージキャラクター、何とも愛嬌のあるキャラクターです。これは、鬼の出入り口が丑寅(北東)の不吉な鬼門であることに由来しているとか。

鬼手仏心、外面は恐ろしい鬼面でも内心には深い慈悲が宿っている真の優しさです。

心を鬼にする、鬼コーチ、練習の鬼、折伏の鬼等々。どれも厳しさの裏に深い慈悲が宿るいい言葉です。


 いずれにしても魔も鬼も私達の心の隙を虎視眈々(こしたんたん)と狙(ねら)っています。

その中で特に見過ごしやすいのが「己心の魔」、手ごわい相手です。信心が深まるほど激しさを増すのもこれらの特徴です。障魔に怯(ひる)まず敢然と立ち向かう勇気をもって乗り越えたいものです。

そこに人間の成長もあり、宿命転換のチャンスもあります。

正邪を見透す眼力、魔にも鬼にも屈しない信力、苦難を克服する行力、堅固な信心でこれらの力を養えば、何物にも動じない不動の絶対的幸福の境涯を確立すること請け合いです。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年7月1日号より


今月の指針2026年7月号「魔と鬼と」
今月の指針2026年7月号「魔と鬼と」


今月の指針6月号「孝養の者は爪上の土(そうじょうのど)」 一天四海皆帰妙法

 あるとき仏が、「大地より重いものがあるか?」と地神に問うと、すかさず地神は、「あります!」と答えました。

仏は、「何を偏頗(へんぱ)なことを言う!この世界の一切の衆生も山川草木(さんせんそうもく)も地神が支え持っているではないか。それより重いものがあるとは一体どういうことか?」。

地神は、「確かに永い間大地を支えながら虚空を駆けめぐって少しも重いと思ったことはありません。しかし不孝者が住んでいる所だけは例外です。そこだけはあまりにも重く耐えられず、頸(くび)は痛く、腰も折れそうで、膝も力が抜け、足も引くこともできません。いっそのこと投げ捨ててしまおうかと何度思い悩んだことか。だからその大地だけはいつも揺れ動いているのです。仏に反逆した提婆達多(だいばだった)が、大地が破(わ)れて無間地獄に堕ちてしまったのはそのためです。」と。

じっと聞いていた仏は、「なるほど、なるほど。」と頷(うなず)かれました。

  (『刑部左衛門尉女房御返事』1503頁【取意】)


 翻(ひるがえ)って現代。孝養は前時代的なものと見なされがちです。しかし人間は親あっての存在、孝養こそ人の道として最も本源的な問題です。

『涅槃経(ねはんぎょう)』には、「末代の濁悪(じょくあく)の世には、不孝の者は大地微塵(みじん)よりも多く、孝養の者は爪の上の土よりも少なし。」と説かれ、

日蓮大聖人は、

「親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。」

  (『刑部左衛門尉女房御返事』1504頁)

と、孝養の難しさを喝破(かっぱ)されています。

「親孝行したい時に親は無し」、「歯が抜けて噛(か)み締める親の恩」、蓋(けだ)し名言です。


 さて御書に、

「四十余年の経々を捨てゝ法華経に入らざらん人々は世間の孝不孝はしらず、仏法の中には第一の不孝の者なるべし。」

  (『法門申さるべき様の事』428頁)

と説かれています。

一段深く仏法的な視点に立てば法華経に背(そむ)く現代人は、その大半が不孝の者、大地が揺れ動くのは道理というものです。


 今、世界各地で頻発(ひんぱつ)する環境破壊による自然災害や果てしない紛争は、法華経に背く謗法者が充満する大地が揺れる悲劇そのものです。

一日も早い一天四海皆帰妙法を希(こいねが)いながら妙法広布に挺身することこそ地涌の使命に他なりません。

このことを一層強く自覚して、まず身近な所から止暇断眠(しかだんみん)の精神で折伏に汗を流そうではありませんか。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年6月1日号より


今月の指針6月号「孝養の者は爪上の土(そうじょうのど)」
今月の指針6月号「孝養の者は爪上の土」



2026年7月19日(日)清涼寺法話会のお知らせ
2026年7月19日(日)清涼寺法話会のお知らせ

今月の指針5月号「折伏の第一歩」 

 日蓮大聖人は、『十字(むしもち)御書』に、

「月は山よりいでて山をて(照)らす、わざわい(災)は口より出でて身をやぶ(破)る。さいわい(幸)は心よりい(出)でて我をかざ(飾)る。」

  (新編1551頁)

と説かれています。

山の端(は)から出た月は、自らその山を照らします。同じ照らすにしても、そこには善悪の二面があることを知らなければなりません。


 憎しみや恨みの心で言った言葉は人を傷つけ、その行動は周囲に不快感を与えます。それらは我が命に悪業を刻み、やがてわが身を苦しめる結果になるのです。

「人を呪(のろ)わば、穴二つ」、災いは口より出て身を破る、自業自得の因果です。


 反対に、思いやりのある心で語る言葉は、相手を温かく包み込み、正義の心で実践する活動は善根となって命に刻まれ、やがて幸せの果報となるのです。

幸いは心より出て我が身を飾る、これも自業自得の因果です。韓国の諺(ことわざ)に、「語りかける言葉が美しければ、返ってくる言葉も美しい」というのがあります。


 いくら命に仏界が具わっていようとも、それは十界互具の命です。本門の大御本尊という明鏡に向かって我が生命の本体を映し出し、それを倦(う)まず弛(たゆ)まず磨かなければ、仏性の光を放つことはできません。


 「心こそ心を惑(まど)わす心」です。自分の一番近くにありながら、自分の思うに任せない我が心、心の手綱は緩めてはなりません。「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」とは、大聖人の常の誡めです。

信心とは、移ろい易い自分の心を根本とするのではなく、三大秘法の御本尊を我が心の師と定めて深く信ずることに他なりません。正しい信心によって磨いた豊かな心から出る優しい言葉、優しい態度が他人との距離を縮めるのです。

それが「折伏の第一歩」です。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年5月1日号より


今月の指針5月号「折伏の第一歩」
今月の指針5月号「折伏の第一歩」

今月の指針4月号「飴と鞭」 勧誡二門

 かつて日本のプロ野球で、管理野球がいいか、放任野球がいいか話題になったことがあります。

選手を厳しい管理下において、勝利に繋(つな)げようとするの管理野球。禁煙・禁酒・門限等々厳しい制約で選手を管理して質の向上を図り、チームを優勝に導こうというわけです。


 それに対して放任野球は、選手のプロ意識を信頼して、あまりウルサく注意せず、のびのびやらせて試合に勝つ。もし成績が悪ければ自業自得、給料も減り、挙げ句の果ては解雇というわけです。


 結果は、優劣つけがたい成績であったように記憶しています。飴と鞭、アクセルとブレーキ、いずれも一辺にかたよらない絶妙のバランス感覚が大事です。


 俗諺に、「三つ叱って五つ褒(ほ)め、七つ教えてよき人にせよ」と。相反するものをうまく操るバランス感覚は、何事においても大事です。これがうまくいけば、その絶妙のバランスを人々は称賛します。

複雑な人間の心、移ろい易い人の心、つかみどころのない意馬心猿の人間の心ほどコントロールが難しいものはありません。

山の賊の退治より、心の賊のほうが難敵です。心こそ心惑わす心であるゆえに決して心の駒の手綱を許してはなりません。


 仏教には、勧誡二門があります。折伏にも育成にも信心の深化にも、時に優しく時に厳しい勧誡二門の使い分け大事です。

仏教の最高峰・法華経には、一念三千の理論が明かされています。本来三千もの様々な心が具わっている命が、善悪様々な縁に触れて、次から次へと顔を出し、それが幸・不幸の結果をもたらすのです。


 日蓮大聖人が顕された一閻浮提最高の三大秘法の大御本尊は、悩める心、惑える心、暴れる心、あらゆる心を磨き整えて最高の力を発揮する源泉であり原動力です。


 無上の縁である御本尊に題目を唱えて、時に勧、時に誡、硬軟織り交ぜて柔軟に対応するところに、信心の喜びと折伏の楽しさ、引いては生きること自体が楽しい自受法楽の人生が開かれていくのです。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年4月1日号より


今月の指針2026年4月号「飴と鞭」
今月の指針2026年4月号「飴と鞭」

今月の指針3月号「自分に勝つ」嘉納治五郎の言葉

 「人に勝つより自分に勝て!」昭和のある時期、スポ根全盛の頃、巷で流れていた主題歌の一節です。

柔道の創始者・嘉納治五郎の言葉です。「自分に勝つ!」という響きがなんともカッコよく、勇気づけられたことを懐かしく思い出します。


 長じてそれがいかに難しいことか、いやというほど思い知らされました。「自分なんかダメだ」と、戦う前から白旗を揚げる不甲斐ない始末です。その度に、自分の心の弱さを知って落ち込んだものです。


 しかし、こんな自分にも、「仏界」という素晴らしい命が具わっているんだと知った時の喜びは、忘れることが出来ません。

「我が心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名づく。」

  (『御義口伝』新編1801頁)と。

至近の睫毛(まつげ)は見えなくても、鏡に向かえば見える。

御本尊は、「仏界」という素晴らしい世界を映し出す妙法の鏡です。それをいかに磨き、輝きを増して実生活に生かして真の幸福を実現するか、そこが問題です。


 『一生成仏抄』に、

「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発(お)こして、日夜朝暮(ちょうぼ)に又懈(おこた)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき、只(ただ)南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。」

  (新編46頁)


 末法の私達にとって日蓮大聖人が顕(あらわ)された三大秘法の御本尊に向かって唱題する以外に仏性を磨く方法はありません。

そこに立ち塞(ふさ)がる「己心の魔」を打ち破って強靭(きょうじん)な精神力、和して流されぬ主体性、汚れに染まらぬ清浄な命を養って不動の境界を打ち立ててこそ、真に幸福な人生行路を歩むことができるのです。


 立宗宣言の前夜、激しい葛藤(かっとう)の末に、「二辺の中には言うべし」との開教の決断は究極の大慈悲です。

臆病風に吹かれて懈怠(けたい)に流されがちな凡身に鞭打って倦(う)まず弛(たゆ)まず唱題に励み折伏に励む以外に、確かな成仏と真の報恩はありません。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年3月1日号より


今月の指針3月号「自分に勝つ」
今月の指針3月号「自分に勝つ」

今月の指針2月号「志は満たすべからず」

 頑健な肉体も今は昔、加齢とともに不具合が生じてきます。

愚癡一つ言わない身体をいいことに、労り(いたわり)と感謝を忘れて暴飲暴食にオーバーワーク、成れの果てが四大不順の病気です。


 熟年世代が卓を囲めば健康の話に花が咲く。

文明社会の恩恵にあずかりながら運動不足を歎く声、飽食に生きて栄養過多に陥(おちい)る現代病患者の嘆き、早期発見には人間ドックが何よりと得意満面に話す御仁(ごじん)、サプリメントは転ばぬ先の杖とばかりに御託(ごたく)を並べる人等々。


 昔から、腹八分目が実践できれば医者要らず、健康と長生きが保証されるとか。

しかし食い意地の張った凡夫には難行苦行です。目前の御馳走につい箸が延び、自然に口が開いてしまう哀しさ。雰囲気に酔って今日一日くらいは・・・、などと自分に言い訳しながら、つい食べ過ぎてしまう凡夫の浅はかさ。

膨らんだおなかを人知れず撫でながら自責の念に駆られれば、折角の御馳走も興醒(きょうざ)めです。


 閑話休題。中国の古典『礼記』に云く、

 「傲(おご)りは長(ちょう)ずべからず。欲は 従(ほしいまま)にすべからず。志は満たすべからず。楽しみは極(きわ)むべからず。」

「志は満たすべからず」とは、敢えて志を満たさないのが更なる飛躍に繋(つなが)る賢明な生き方だと説いています。

一方、志を立て目標を掲げて最善を尽くしても達成できなかった場合、却ってその悔しさがバネとなって不屈の精神を呼び起こし、不断の努力に繋がって飛躍と成功を勝ち取ることができるのです。


 失意と逆境の時にこそ不屈の信心を呼び起こそう。

倦(う)まず弛(たゆ)まず勤行・唱題に打ち込めば、傲(おご)りのない無欲で瑞々(みずみず)しい命が輝き、変毒為薬(へんどくいやく)・転厄為幸(てんやくいこう)の功徳が湧いてきて、力強い不動の人生を歩むことができることを肝に銘じたいものです。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年2月1日号より


今月の指針2月号「志は満たすべからず」
今月の指針2月号「志は満たすべからず」

年頭の辞 「育成こそ躍進の力」

 立宗七百七十四年、「団結行動の年」、明けましておめでとうございます。


 折伏は、広布前進の力です。しかしそれは育成あってこその力です。

半信半疑の初信者に対して、わが初信時代に思いを馳せながら根気よく基本を教えることが尊いのです。

やがてそこに初信の功徳があらわれ、信心の喜びと確信を人に語る姿を見る喜びは、何物にも替えがたい折伏親の冥利です。


 ところで育成は、初信者に限ったことではありません。

休眠信徒に対する覚醒と再起を促す激励家訪、次代・次次代を担う青少年の人材育成、各家庭の確実な法統相続に向けた不断の努力、これらはすべて広布へ繋(つな)がる育成の大事です。


 ところで人に物を教える以上、曖昧(あいまい)な知識、いい加減な信心姿勢は許されません。

率先垂範、わが身を正して基本をしっかり学び直すことも必要です。それは自らの信心の垢(あか)を洗い流し、我流の信心を見直すいい機会でもあります。


 逆縁のわが身が正法に目覚めた懐かしい思い出。

不軽菩薩の精神で根気よく折伏してくれた白烏(はくう)の恩。

その大恩を今こそ果敢な折伏と粘り強い育成の実践で、謗法の害毒に喘(あえ)ぐ黒烏に返していきたいものです。


 さて本年は、旧年の『活動充実』から心機一転『団結行動』が年間を貫く活動方針です。

弛(たゆ)まぬ勤行・唱題の励行で命を磨けば、わが身が折伏に奮い立ちます。

御講・登山・講習会への参加は、信心練磨と人材育成の絶好の機会です。活発な座談会は異体同心の輪を広げます。

三つの実践テーマを団結行動の基本に据(す)えて、互に声をかけあい共々に広布の大道を歩んでまいりましょう。


 皆様の御健勝と信行増進を心より祈念し、新年の辞といたします。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

年頭の辞 指導教師 石橋頂道 御尊師

2026年1月1日号より


年頭の辞 「育成こそ躍進の力」 2026年1月1日

今月の指針12月号「運命は変えられる」

 「不幸な運命」、「悪い運命の星のもと」など、とかく「運命」という言葉には、過去世からの定めという暗く固定的なイメージがつきまといます。

そこには人間の力では如何ともしがたいあきらめの思想が支配的です。仏教でいう宿命も宿業もほぼ同義です。


 仏法でも世間でも、原因結果の法則を説きますが、仏法のそれは遥かに深く広く厳しい因果の道理です。

そのうえ仏教では過去・現在・未来の三世を貫く因果の間に「縁」を説くのが大きな特徴です。

例えば木は木でも、御本尊に謹刻される木もあれば、踏み板になって踏みつけられたり、薪になって燃やされてしまう木もあります。それはみな縁の違いによるのです。


 ところで人間の一生が、過去の因だけですべて決まるとしたら、それは単なる運命論であり宿命論です。

しかし人間には、自ら考え行動する力が具わっています。

だからこそ正法に巡り会う「縁」さえ整えば、宿命を転換し、変毒為薬(へんどくいやく)して真の幸福の境涯を築くことができるのです。


 元来仏教には、勝劣浅深があります。いま時代は、五濁爛漫(ごじょくらんまん)の末法です。

そこ生まれ合わせた煩悩具縛(ぼんのうぐばく)の荒凡夫(あらぼんぷ)は、法華経の文底に説かれる南無妙法蓮華経の御本尊という無上の縁によってのみ真の成仏が叶うことを忘れてはなりません。

『上野殿御返事』に曰く、

「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。只南無妙法蓮華経なるべし。」

  (新編1219頁)と。

また『聖愚問答抄』に曰く

「只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」         

  (新編406頁)


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2025年12月1日号より



bottom of page