
住職法話
美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介
今月の指針10月号「朝三暮四(ちょうさんぼし)」
「朝三暮四」は、『莊子』(そうし)にある有名な故事です。
「宋の狙公(そこう)が、飼ってい た猿たちに茅(かや)の実を、朝は三つ晩に四つ与えたら一斉に怒り出しました。そこで一計を案じた俎公は、朝に四つ晩に三つ与えると、猿たちは一斉に喜びました。(『斉物論』第二)
目先の事に惑(まど)わされて喜ぶ浅智慧です。しかし目先の利害に目が眩(くら)んで一喜一憂し、外見に惑わされて本質を見失う猿の浅智慧を笑う資格は人間にありません。
『佐渡御書』には次のように仰せです。
「魚は釣り針を警戒して深く潜(もぐ)る、しかし餌に騙(だま)されて針に食らいつく。鳥は捕獲を恐れて高い梢(こずえ)に避難しても網に引っかかる。その愚かさは人間だって同じ、目先の物事に幻惑されて大事な命を落とすのです。」(取意)
えてして人間は、目先のことにとらわれ、表面の華やかさに目が眩(くら)み、優しい言葉や軟らかい身のこなしに誤魔化されて泣きを見ることが少なくありません。だからこそ世の中に○○詐欺や××商法が横行するのでしょう。麻薬だって同じ、最初の快感に陶酔(とうすい)して、ついついのめり込んで終(つい)には身の破滅です。
悪縁充満する悪世末法で強く正しく生きて行くためには、物の本質を見抜く観察眼と先を見通す智慧を養うことが不可欠です。
大聖人は、『観心本尊抄』に、
「大乗を学する者は肉眼(にくげん)有りと雖(いえど)も名づけて仏眼(ぶつげん)と為(な)す。」
(新編647頁)
と説かれて、正しい信心で磨けば肉眼も仏眼となると仰せです。
また『御義口伝』には、
「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。」
(新編1775頁)と。
三大秘法の大御本尊への 純粋無垢な信心は、以信代慧の智慧と六根清浄の功徳を身に具える末法最善の修行です。
うわべの華やかさに執(とら)われず、本質を見抜く確かな眼を養って悪縁を振り払い、自ら境界を大きく開いていくことが、引いては下種折伏に繋(つな)がることを忘れてはなりません。
炎暑も終息の十月です。本門戒壇の大御本尊御図顕の月、お会式の月。いよいよ信心の炎を燃やし、御報恩の誠を尽くしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年10月1日号より
今月の指針9月号「和顔施(わげんせ)」 四十を過ぎたら自分の顔に責任を持て!
布施とは、印度の言葉「ダーナ」の漢訳(音訳は檀那)です。そこから連想するのはまずお金や物、それも大事な布施行の一 つです。しかしそれだけではありません。金品が無くても相手に喜びを与えることのできる布施もあるのです。
この「無財の施」の一つが「和顔施」です。
かのアメリカの大統領・リンカーンは、「四十を過ぎたら自分の顔に責任を持て!」という有名な言葉を残しています。生まれつきの顔は親譲(ゆず)り、でも四十を越えたら自分の顔に責任を持つことが大事、人生模様が刻まれた顔は、正に自己責任の産物です。
四十年の人生は、そのまま自分の顔に表れてくるのです。
なるほど意地の悪い人は、何となく意地悪な顔?に見えてきます。怒りっぽい人の顔は、どことなく怒り顔?。性格のきつい人は、何となくそんな顔になってくるから不思議です。
決して他人事ではありません。「人の振(ふ)り見て、我が振りを直せ」です。果たして自分は、普段からどんな顔をして人に接しているか、改めて鏡を見る のも大事です。
心にもなく不機嫌な顔をして、周囲の人に不愉快な思いをさせてはいないか。笑顔が消えた渋い顔で不快な思いを与えていないか等々。
いずれにしても日頃から、にこやかな顔で人と接するように努めることが大切です。にこやかな顔、笑(え)みを湛(たた)えた顔、優しい顔、それは人の心を和(なご)ませる一銭もいらない無財の施しです。
そういえば昔、「百万ドルの笑顔」という言葉がありました。時と場合によっては「百万ドル」もの価値があるのです。
ところで日蓮大聖人は、
「親によき物を与へんと思ひて、せめてやる事 な(無)くば一日に二三度え(笑)みて向かへとなり。」
(『上野殿御消息』新編920頁)
と、笑顔の効用を説かれています。一日に二、三度笑顔を振り向けるだけでも立派な親孝行、何と素晴らしいこ とでしょう!
「功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり、又六根清浄なり」
(『御義口伝』新編1775頁)
純粋な信心で眼耳鼻舌身意の六根を磨けば、笑顔がこぼれ円滑な人間関係、心豊かな人生が広がること請(う)け合(あ)いです。笑顔は折伏実践の大切な心得の一つです。たかが笑顔、されど笑顔。信心根本に笑顔を絶やさず、飽(あ)くなき挑戦、弛(たゆ)まぬ努力が肝心です。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年9月1日号より
今月の指針8月号「人を樹える(うえる)」
「一年の計は穀を樹(う)うるに如(し)くな莫(な)く、十年の計は木を樹うるに如くな莫く、終身の計は人を樹うるに如くな莫し。一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり。一樹百穫なる者は人なり。」
(『管子』)
一年は穀物、十年は樹木、そして百年の大計は所詮、人を樹=植えること如くは無しです。
一人の有為な人材の輩出は、その百倍の人材の育成に繋がる、それが一樹百穫です。
翻って私達の大願は広布です。人材育成が最重要であることは論を俟(ま)ちません。
大聖人が『持妙法華問答抄』に、
「一切の仏法も又人によ(依)りて弘まるべし。」
(新編298頁)
と説かれている通りです。
しかし、信心修行の上からは、あくまで人より法が大事です。人は不安定で法が歪められる恐れがあるからです。
仏滅の分裂分派や大聖人滅後の五老僧の師敵対の姿を見れば明らかです。大聖人があまたの弟子の中から日興上人に唯授一人の血脈を授けたからこそ、正法は久住してきたのです。
仏法実践の上からは、あくまで法勝人劣の身軽法重・依法不依人が基本です。
一方、法を弘めるのは「人」が主体です。
「法自(おの)づから弘まらず、人、法を弘むるが故に人法ともに尊し。」
(『百六ヵ箇抄』新編1689頁)
の御文を拝するまでもありません。正法を活かすも殺すも人次第。
法華講は、地涌の使命を帯びたかけがえのない広布の組織です。広布の大願の中にこそ、我が小願ありと心得て、常精進の生活を心掛けることが重要です。
佐渡御赦免後の身延御入山も人材育成が大きな理由です。
身延を離山された御開山日興上人が、大石寺創建後ほどなく大石寺東方の重須(おもす)に移られたのも広布の人材育成が最大理由です。万代広布を見据えた厳格な人材育成があってこその広布です。
総本山大石寺に唯授一人の血脈相承と共に本門戒壇大御本尊が厳護され、一生成仏を目指す熱原法華講の末裔が存在し、異体同心の結束があることを忘れてはなりません。
七百年常に広布の人材育成を宗是として歩み続けてきた宗門の尊き歴史に感謝を忘れず、確実な法統相続と広布後継の育成に熱い思いを馳せながら、更なる広布開拓に挑んでまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年8月1日号より
今月の指針7月号「強く生きる」
風そよぐ草原に吹く一陣の風、そこにビクともせずすっと立つ一本の草、強い風が吹いてこそ初めて分かる根の強さです。根が浅く弱い草は倒れ、根が強く深い草は生き残る。
「疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る」。古来人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)する名言です。
正月によく拝読する『十字(むしもち)御書』の中に、
「蓮はきよ(浄)きもの、泥よりい(出)でたり」
(新編1551頁) という一節があります。
比類なき清き蓮華の花は泥沼に咲く。二千年の悠久(ゆうきゅう)の時を経て開花する蓮華の花は、因果倶時の徳を具えた不朽(ふきゅう)の名花です。
だからこそ妙法の偉大な功徳に譬(たと)えられ、大聖人は御本仏の境地を「日蓮」の御名に託されたのです。
ところで私達は、表面の華やかさとは裏腹に、一皮むけば煩惱と欲望の渦巻く泥沼のような世界に生きています。仏教ではこれを娑婆(しゃば)と呼び、耐え忍ぶ穢(けが)れた世界です。
経済苦や病苦にはじまって人間関係・家庭不和・誹謗中傷、加えて天変地異の果てに骨肉相食(あいは)む戦争です。悩みの種は尽きることがありません。
しかし泥沼が深ければ深いほど大輪の華が咲き、煩惱・業苦が盛んなほど真の幸せを勝ち取ることができる。
煩悩の中にこそ真の悟りが生まれ、苦惱の中にこそ真の歓喜が生まれる、これまた紛れもない事実です。
但しそこに絶対的条件として、三大秘法の正しい信仰が不可欠であることを忘れてはなりません。
絶望から希望の光が差し込んで生きる勇気と元気が芽生える大聖人の仏法は、いかなる困難にも負けない強く生きる力の源です。
苦しみから逃げても、それは必ずついてくる。それを克服する道は、それに負けない強い自分を作るしかありません。
どこまでも正しい信心を持続し継承して、信心の根を深く張り巡らし、疾風にビクともしない勁草のように強く生きる自分でありたいと思います。
連日の異常な酷暑のなかで、これも一つの善知識と達観し、快い汗を流してこその法悦です。
更なる異体同心の団結で力強く広布の前進を図ってまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年7月1日号より
今月の指針6月号「涙は善悪に通ず」 甘露の涙
人生は涙と共に始まる。嬉し涙、感激の涙、悲しみの涙、悔し涙、目が潤(うる)む程度のものから、どっと溢れ出るものまで実に様々です。
特定の効果を狙(ねら)って意識的に流す涙もあります。女の涙は、したたかさを表す女の武器でもあります。人を騙(だま)す演技の涙もあります。人生を彩(いろど)る涙に飽(あ)くことはありません。
因(ちな)みに御誕生と共に「苦我、苦我(苦は我にあり)」と泣いた大聖人は、産声においても面目躍如としています。
もともと 涙は、様々な縁に触れて奥深い心が表れる感情です。
『涅槃経(ねはんぎょう)』には、父母・兄弟・妻子・眷属(けんぞく)に別れて流す世間の涙は、四大海の水よりも多い、しかし人の為に流す慈悲の涙は希(まれ)であると。
だからこそ衆生救済の慈悲の涙は、「甘露(かんろ)の涙」なのです。
日蓮大聖人は、久遠元初の慧光を和らげて五濁の真っただ中にお生まれになった御本仏です。荒凡夫に寄り添い、救いの手を差し延べて下さる末法の御本仏です。
しかし、外見はあくまで凡夫僧、だからこそ未曾有の法難に遭って流した悔し涙は計り知れません。
「鳥と虫とは、な(鳴)けどもなみだ(涙)を(落)ちず、日蓮は、な(泣)かねどもなみだ(涙)ひまな。このなみだ(涙)世間の事には非ず、但偏(ひと)へに法華経の故なり。若(も)ししからば甘露の涙とも云ひつべし。」
(『諸法実相抄』新編667頁) と。
大聖人の御心は、渇(かわ)く暇(いとま)もなく常に慈悲の涙に暮れていました。
「現在の大難を思ひつづ(続)くるにもなみだ(涙)、未来の成仏を思ひて喜ぶにもなみだ(涙)せきあへず。」と、
逆境に流す辛苦の涙と法華色読の喜悦の涙が入り混じった涙そのものが、大聖人にとっては無上の法悦だったのです。
末法の荒凡夫をいかにして五濁の渦中から救い出すか。そこに些(いささ)かの迷いもなく止暇断眠、折伏逆化の御生涯を送られた大聖人。その驥尾(きび)に付して二陣、三陣と続くところに真の弟子檀那の道があり、法華講衆の価値もあります。
いよいよ地涌の自覚を強く持って共に甘露の涙を流しながら、法悦歓喜を味うところに人生の醍醐味があることを信じて、更なる広布の大道を歩んでまいりたいものです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年6月1日号より
今月の指針5月号「一円を笑う者は、一円に泣く」 蟻の一穴
「一円を笑う者は、一円に泣く」。
たった1円などと馬鹿にしていると、その1円が無いばかりに泣かされた経験は誰でもあるはず 。
99%完成しても、たった一本のネジがなければ、その車は未完成。「たった一つのネジが足りないだけですよ。安全面には問題ありません。立派に走りますよ。是非買って下さいな。」
あなたは、この車買いますか? そして乗りますか? たかが一本、されど一本です。
これは物だけにいえることではありません。時間だって同じです。
朱子(しゅし)の『偶成(ぐうせい)』には、
「少年老い易く、学成り難し、一寸の光陰 軽んずべからず。」と、これは誰もが知る有名な教訓です。
とりわけ、「一寸の光陰 軽んずべからず。」の一句は、これほどの大学者にしてこの後悔の感慨、ひとしお心に響きます。
こうした古今の誡めを心に刻んで、常に怠慢を誡め、わが人生に二度と巡ってこないかけがえのない今日一日を大事に過ごすこと が大事です。
しかし言うは易く行うは難しです。
さて、御本仏日蓮大聖人は、御書の中に「蟻(あり)の一穴」の誡めを説かれています。即ち、
「なはて(畷)堅固(けんご)なれども、蟻の穴あれば必ず終(つい)に湛 (たた)へたる水のたま(溜)らざるがごとし。」
(『阿仏房尼御前御返事』新編906頁)と。
蟻が通る小さな穴と侮(あなど)るなかれ!それを見過ごしたばかりにやがて小さな穴から水が漏れ出して水田が干上がる。
堅牢な堤防は決壊する。船底から水が入りわが身もろとも沈む恐ろしさ。信心もまた同じです。
どんなに長年信心に励み功徳を積み重ねても、僅(わず)かな気の緩(ゆる)みからくる慢心や我見の芽、それが芽となってやがて大きな謗法となり、功徳を失い身を滅ぼすことになるのです。常初心の信心で謗法の芽を摘み、信 心の点検を怠ることなく精進を重ねる努力が不可欠です。
大聖人は、佐渡の千日尼に対して慈愛を込めて信心の厳しさを教えられたのです。
七百年の時空を超えてわが身にこれを当てはめ、小さな謗法の芽を見抜く信心の眼を養い、人生の危機管理を怠らずに賢明に生きることが肝心です。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」
爽やかな初夏の五月。この好節に一層信心のタガを引き締め広布の使命を全うしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年5月1日号より
今月の指針4月号「厳愛」
『上野殿御返事』に、親子の関係について次のような話が説かれています。
「勉強嫌いな子供の将来を案じた親が、槻(つき)の木の弓でその子を打ちました。子は父のみならずその弓まで憎みましたが、やがて長じて学成り、他人を導くまでに出世して初めて気がついたのです。これまでになれたのは、あの時、心を鬼にして自分を打ってくれた父のお陰であると。そう思うと自然に有り難さが込み上げてきて、今は亡き親のために同じ槻の木で塔婆を立てて報恩感謝の誠を尽くしたのです。(取意)」
(新編1360頁)
親子といえども人格は別物です。親に子をたたく「権利」はありません。しかし親には、産んだわが子を正しく育て社会に送り出す「責任」があります。聞き分けのない子供に対して、どうして親の責任を果たすか、難しい問題です。その場合、真の慈悲に裏付けられた「厳愛の打擲(ちょうちゃく)」ならば、許容される場合もあるのではないでしょうか。
世の中には、目先や表面的な事だけで割り切れないことがたくさんあります。長期的な視野に立ってじっくりと取り組む躾(しつ)けや教育もまた然り、真の成果が表れるまでには、それなりの時間と観察が必要です。
ところで、やむにやまれぬ気持ちでわが子に手を上げる親の気持ちを考えたことがありますか?
心を鬼にしてわが子をたたく親の手の痛さと心の痛みは、たたかれる子供が受ける痛さより遥かに大きなものです。
仏教では、親子の関係は影が身に随うように一体不離のものと説かれています。人間のあらゆる過去の行ないは、業として命に刻まれます。わが子を打つのも因縁ならば、打たれるのもまた因縁です。親子の浅からぬ因縁に思いを馳せながら互いに宿業を見つめ、共に唱題に励んでこそ良好な親子関係を築くことできるのです。
百花繚乱の四月。桜梅桃李の個性を尊重しながら異体同心して折伏を実践し、法統相続を着実に進めて信心の畷(なわて)を固めてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年4月1日号より
今月の指針3月号「常・楽・我・浄」 常楽我浄
人間は、誰でも幸福を求めて生きています。
そのために社会的地位や名声を追い求める人、
「幸福は金!次第」とばかりに蓄財に精を出す人、
「健康で好きな人と一緒なら、たとえ平凡な暮らしでも幸せよ!」という人
など幸福の基準は、人それぞれです。
しかし、こうした幸せはいつ崩れ去るともわからない天界の幸せです。
財産があるばかりに骨肉相食む餓鬼界(がきかい)にさまよう姿は珍しくありません。
また今はどんなに若さと美貌を誇っていても、寄る年並みには勝てません。皺や白髪に悩まされるのは時間の問題です。
経済不安や突然襲いかかる天変地異など、この世は苦悩の尽きない娑婆世界の忍土なのです。
ところで揺るぎない成仏という不動の境界を目指す正しい信仰は、これらの苦悩を波乗りのようにダイナミックに乗り越える強靭(きょうじん)で自在な人生を教えています。
何物にも侵されない自由自在の生命(常)。
生きていくこと自体が楽しい絶対の幸福の境界(楽)。
何物にも紛動されない強靱な主体性(我)。
何物にも染まらない清浄な生命(浄)。
これら常・楽・我・浄の生命を躍動させるために正しい信仰があることを忘れてはなりません。この絶対的な幸福の道を万人に開くために、日蓮大聖人は大慈悲を起こして三大秘法の大御本尊を建立されたのです。
御書に、
「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべき事尤も大切なり。」
(新編1388頁) と。
更に『四条金吾殿御返事』に、
「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり。経に云はく『衆生所遊楽』云々」
(新編991頁) と。
末法の時に適った最高の仏法に巡り会えた悦びと、三大秘法の御本尊に独一本門の題目を唱えて命を磨く幸せを噛み締めながら、そこに湧き上がる慈悲心を折伏の原動力として勇躍広布へ邁進したいものです。
「自行満ちて化他あり」と。いよいよ自行の充実を図り、「一月一地区一名の折伏成就」を成し遂げて、尊き使命を果たしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年3月1日号より
今月の指針2月号「慢は高き山のごとし」
慢心ほど手に負えないものはありません。それは誰でも具わっている人間の心の一分でもあります。
折に触れて顔を覗(のぞ)かせる慢ずる心は、仏でさえ手を焼く曲者(くせもの)です。
天台大師は、「慢の高き山の如し、雨水(うすい)止まらず。」と教えています。大量の雨も山頂に止まることがありません。
同じように慢心が強ければ強いほど、功徳の法水は身に止まることなく流れ去ってしまいます。やがて人徳が枯れ、人心も離れて徳薄垢重(とくはっくじゅう)の境遇に成り下がってしまうのです。
信心とは、自分の心を信じることではありません。心こそ心を惑(まど)わす心であり、移ろい易く不安定なものだからです。
悪縁に紛動(ふんどう)され易(やす)いのも我が心、一番身近にあって思うに任せないのも我が心、人間の弱さの一面です。
意馬心猿(いばしんえん)、山の賊より心の賊の退治が難しいのです。
つまり信心とは、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と御書にあるように、我が心を仏の御心に任せることに他なりません。
『持妙法華問答抄』に、
「上根に望めても卑下(ひげ)すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても驕慢(きょうまん)ならざれ。上根ももる(漏)ゝ事あり、心をいたさざ るが故に。」
(新編298頁) と説かれています。
成仏の資格に、財産の多寡(たか)、社会的な地位、学歴の有無などは関係ありません。
いかに謙虚に法を求め抜くか、将又(はたまた)真摯(しんし)に一路求道の信心を貫くか、成仏の鍵はそこにあります。
もしそこに慢心があれば、両手で掬(すく)った水が指の隙間から漏れ出すように、いかに広大無辺な仏の御手といえども、そこから漏れてしまうのです。げに恐ろしきは慢心です。
また絶望は、我が仏性と仏の救いを否定する謗法に繋(つな)がります。
己(おの)れの仏性を固く信じ、大御本尊の甚深無量の功徳を確信して倦(う)まず弛(たゆ)まず仏性を磨く金剛不壊の信心が肝要です。そこに確かな成仏の果実があり実証があるのです。
仏の本懐は、下根下機の荒凡夫を救うところに真骨頂があることを忘れてはなりません。
寒気厳しい如月(きさらぎ)(衣更着)二月です。
宗祖御聖誕の妙(たえ)なる月に当たり、寒さもものかは勇気を奮い起こして折伏弘教に精魂を傾け、御報恩の誠を尽くしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年2月1日号より
年頭の辞「水は舟を浮かべ、また覆す(くつがえす)」
令和七年、明けましておめでとうございます。
古徳の言葉に、
「水はよく舟を浮かべ、また舟を覆す。薬はよく病を治し、また身命を害す。万般ことごとくしかなり。」と。
御書にも、
「水は能く船をたすけ・水は能く船をやぶる、五穀は人をやしない・人を損ず。」
(『神国王御書』新編1301頁)
と説かれています。
舟を浮かべる力と転覆させる力を合わせ持つ水。良薬も服用を誤れば毒となる危険。五穀も食べ過ぎればかえって健康を害します。
もの事の二面性を知ってこそ初めて本来の力や素晴らしい効能の恩恵に預かることができることを知らなければなりません。
「酒は飲んでも、飲まれるな!」。
孤独を癒(いや)し、旧交を温め、交誼(こうぎ)を深める最良の酒も度が過ぎれば、一転悪役に早変わり、健康を損ない、喧嘩に発展し、遂には身を滅ぼして、「百薬の長」も台無しです。
十界互具・一念三千の人間の命は、迷悟をはじめ様々な命が、三世の因果に貫かれて同居する多面的な複合体です。それが種々の縁に触れてあらわれてきます。
最上の縁に触れれば、仏性が磨かれて強い生命力となり、悪縁に染まれば貪瞋痴(とんじんち)に支配された六道輪廻(ろくどうりんね)の迷いに沈淪(ちんりん)するのです。
御本仏日蓮大聖人は、命を磨き、仏界を涌現し、六根を浄めるために三大秘法の大御本尊を顕されました。
煩悩・生死の苦しみを菩提・涅槃の喜びに変えて、真の幸福を確立する道は、大御本尊への真摯(しんし)な信仰以外にありません。
『活動充実の年』 これが本年私達に与えられた通年の年間方針です。
日々活き活きと行動を充実させる最高の妙薬は、正しき勤行・唱題の励行です。
無上の縁に向かって確実に勤行・唱題をすれば、煩悩・業・苦に染められた命が磨かれて生活が充実し、わが身を折伏に駆り立てます。
「決めて、祈って、動けば叶う」。折伏の不変の方程式です。
加えて広布の人材育成は火急の課題です。
万代広布を見据(みす)えて人材養成に寧日(ねいじつ)なかった身延隠棲(いんせい)時代の宗祖大聖人。
大石寺建立後わずか八年にして後事を日目上人に託し、隣郷(りんごう)・北山重須(おもす)に移り、広布千年の計に立って弟子の育成に35年もの長き時間を費やされた第二祖日興上人。
広布の淵源(えんげん)にある宗開両祖が示された育成の大事を鑑(かがみ)として、いよいよ私達は、個人・家・講中の法統相続に最大限の力を注いでいかなければなりません。
日々新たな発心(ほっしん)のもと勤行・唱題を確実に実践しつつ、尊き広布の使命を全(まっと)うしてまいりましょう。
「活動充実の年」の一年間、皆様の御健勝と御健闘を心よりお祈り申し上げ年頭の辞といたします。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
年頭の辞 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年1月1日号より