今月の指針 9月号「行きたように死んで行く」
孔子は、死について尋ねた弟子・子路に対して、この世のことさえよくわからないのに、あの世のことなど分かるはずがないではないか、と答えたといいます。
現実主義者・孔子の面目躍如といったところです。
しかし、こうした現在に重きを置いて死を後回しにする考えを大聖人は、厳しく破折されています。
『開目抄』に、
「過去を知らざること凡夫の背を見ず、未来を鑑みざること盲人の前を見ざるがごとし。」
(新編524頁)
と。
背後の見えない生活は、何かと不便、目が不自由だったら小さな石にも躓(つまず)きます。
過去世に目を背け、来世にも無関心を決め込む生き方はそれと同じです。
仏教は、永遠の生命の上に、三世両重に跨(また)がる因果の道理を説いています。
そこに仏教の優秀性があります。
過去の因を知りたければ、現在の果を見よ、未来の果を知りたければ、現在の因を見よ。
因果は三世永遠に続きます。
過去を見据(みす)え、未来を展望しながら、足下の現実をしっかり見つめて歩くところに素晴らしい人生が開かれていくのです。
信心修行はそのためです。
「先づ臨終のことを習ふて後に他事を習ふべし。」
(『妙法尼御前御返事』新編1482頁)
と。
人は死を恐れる、なぜなら死が怖いからです。
誰も経験したことのない未知の世界、正に未知との遭遇です。
この世に生を受けた以上避けることのできない死。
しかもそれは老少不定の儚(はかな)い命です。
明日生きる保証は誰にもありません。
だからこそ大聖人は、先ず臨終のことを習え、と教えているのです。
臨終は一生の集大成。人生の総決算です。
死を先送りして、目先の享楽に心を奪われれば、やがてツケが回って最期に悔やむのは自分です。
まさに後悔は先に立たずです。
死に臨んでも、少しも心乱れず、成仏を信じて疑わない臨終正念の境涯、悔い無き人生を全うするために、妙法を持ち、真剣に勤行唱題し、広布に生きる価値ある人生が求められてくるのです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2022年9月1日号より