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今月の指針6月号「涙は善悪に通ず」 甘露の涙

 人生は涙と共に始まる。嬉し涙、感激の涙、悲しみの涙、悔し涙、目が潤(うる)む程度のものから、どっと溢れ出るものまで実に様々です。

特定の効果を狙(ねら)って意識的に流す涙もあります。女の涙は、したたかさを表す女の武器でもあります。人を騙(だま)す演技の涙もあります。人生を彩(いろど)る涙に飽(あ)くことはありません。

因(ちな)みに御誕生と共に「苦我、苦我(苦は我にあり)」と泣いた大聖人は、産声においても面目躍如としています。


 もともと 涙は、様々な縁に触れて奥深い心が表れる感情です。

『涅槃経(ねはんぎょう)』には、父母・兄弟・妻子・眷属(けんぞく)に別れて流す世間の涙は、四大海の水よりも多い、しかし人の為に流す慈悲の涙は希(まれ)であると。

だからこそ衆生救済の慈悲の涙は、「甘露(かんろ)の涙」なのです。


 日蓮大聖人は、久遠元初の慧光を和らげて五濁の真っただ中にお生まれになった御本仏です。荒凡夫に寄り添い、救いの手を差し延べて下さる末法の御本仏です。

しかし、外見はあくまで凡夫僧、だからこそ未曾有の法難に遭って流した悔し涙は計り知れません。


「鳥と虫とは、な(鳴)けどもなみだ(涙)を(落)ちず、日蓮は、な(泣)かねどもなみだ(涙)ひまな。このなみだ(涙)世間の事には非ず、但偏(ひと)へに法華経の故なり。若(も)ししからば甘露の涙とも云ひつべし。」

  (『諸法実相抄』新編667頁) と。


大聖人の御心は、渇(かわ)く暇(いとま)もなく常に慈悲の涙に暮れていました。

「現在の大難を思ひつづ(続)くるにもなみだ(涙)、未来の成仏を思ひて喜ぶにもなみだ(涙)せきあへず。」と、

逆境に流す辛苦の涙と法華色読の喜悦の涙が入り混じった涙そのものが、大聖人にとっては無上の法悦だったのです。


 末法の荒凡夫をいかにして五濁の渦中から救い出すか。そこに些(いささ)かの迷いもなく止暇断眠、折伏逆化の御生涯を送られた大聖人。その驥尾(きび)に付して二陣、三陣と続くところに真の弟子檀那の道があり、法華講衆の価値もあります。

いよいよ地涌の自覚を強く持って共に甘露の涙を流しながら、法悦歓喜を味うところに人生の醍醐味があることを信じて、更なる広布の大道を歩んでまいりたいものです。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2025年6月1日号より

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