第25号 H25.10.8 「本当の宝を求めて」
世の中には、種々の宝が存在します。
個人的には、貴重な財物や財産、またかけがえのない家族・友人などもそうでしょう。
家庭においては家や土地、また先祖代々伝わる家宝なども一家の宝と言えます。
さらに、国においては重要文化財などの文化的芸術的価値がある国宝やその国の歴史や、歴史に名を残した人物なども国の宝と言えるでしょうか。
しかし、この宝も、所用する人物や時代などによってその価値も変わってきます。
Aさんの宝が、Bさんにとって宝となるとは限りませんし、骨董品のような、昔はそれほど価値がなかったものが、時間が経過するごとに高額の値が付いたりします。
さらに具体的に申しますと、ご主人がお金を掛けて購入した車やゴルフクラブは、奥さんにとってはそれほど貴重なものとは思えないでしょうし、逆に、奥さんが一所懸命集めた宝石やブランド品は女性にとって魅力的な物でありますが、しかし、これとて夫からみれば必要のないものです。
また、子供が大切にしているオモチャは、親にしてみれば部屋を狭くさせる我楽多にさせ思えることがあります。
このように、一口に宝といっても、持つ人によって、またその時代によって価値は変わるのです。
さて、仏教においての宝をみてみますと、御経典で説かれる「宝」とは、私達の最高の生命である仏性や悟りの成仏に譬えております。
法華経の『五百弟子受記品』の中で「貧人繋珠の譬」という譬喩がでてきます。
いま簡略に申しますと、
「ある貧乏な男が親友の家で酒に酔って寝入ってしまいました。
親友は外出するので、眠っている男の衣装の襟の裏に、宝の珠を縫い込んで出掛けました。
男はそれに気付かず、そののち他国を放浪し、少しの収入で満足しながら暮らしていました。
再び親友に出会ったとき、親友から宝の珠のことを聞かされ、男は初めてそれに気づき、ようやく宝の珠を得ることができ、裕福な暮らしをすることができた」
という話であります。
この譬え話では、酒に酔った男は声聞の衆生のことで、親友は仏、釈尊のことであります。阿羅漢果という小乗の悟りに満足する愚かな衆生が仏の真実の教えを聞いて、はじめて自分の中にも仏性が具わり、成仏が可能である、と知ったことを教えられています。
皆様の中にも、お酒に酔った際に、大事な財布や書類などをどこかに忘れてしまった、などの失態をされた方もいらっしゃるかと思います。
この貧人繋珠の譬は、最も清く勝れている仏と同等の生命である仏性を、私達は他に求めずとも、元々自分自身に持っている。
しかし、煩脳という酒に酔い、これを見つけることができずにいて迷いの生活を送っている、という御教示なのです。
大聖人も、
「我等衆生無始曠劫より已来、妙法蓮華経の如意宝珠を片時も相離れざれども、無明の酒にたぼらかされて、衣の裏にかけたりとしらずして、少なきを得て足りぬと思ひぬ」
と、末法の私達も過去より妙法蓮華経という宝を片時も離さず持っているのに、煩脳という無明の酒に酔い気が付くことができない、しかも少しばかりの利益を得て十分であると思っている、と仰せなのです。
ことわざにも「秘事は睫(まつげ)」とありますが、目に一番近くにある睫が見えないと同じであります。
では、この宝珠である仏性を見つける方法は何かと申しますと、言うまでもありません。
それは正しい対境、つまり御本尊に巡り会うことです。
仏性は正しい真実の正境たる御本尊にお題目を唱え、境智冥合しなければ涌現・覚知することができないのであります。
ですから、邪宗教を信仰している人々は、六道輪廻をし続け、迷いや苦悩の境界に止まり、仏性を見つけることができない、いわゆる「宝の持ち腐れ」をしているわけです。
どうぞ、皆様には世間のはかない宝を求め過ぎず、本当の宝を得られるよう、正法正義たる御本尊と境智冥合できる信心を貫いて参りましょう。
発心杖 |2013年10月8日