今月の指針4月号「厳愛」
『上野殿御返事』に、親子の関係について次のような話が説かれています。
「勉強嫌いな子供の将来を案じた親が、槻(つき)の木の弓でその子を打ちました。子は父のみならずその弓まで憎みましたが、やがて長じて学成り、他人を導くまでに出世して初めて気がついたのです。これまでになれたのは、あの時、心を鬼にして自分を打ってくれた父のお陰であると。そう思うと自然に有り難さが込み上げてきて、今は亡き親のために同じ槻の木で塔婆を立てて報恩感謝の誠を尽くしたのです。(取意)」
(新編1360頁)
親子といえども人格は別物です。親に子をたたく「権利」はありません。しかし親には、産んだわが子を正しく育て社会に送り出す「責任」があります。聞き分けのない子供に対して、どうして親の責任を果たすか、難しい問題です。その場合、真の慈悲に裏付けられた「厳愛の打擲(ちょうちゃく)」ならば、許容される場合もあるのではないでしょうか。
世の中には、目先や表面的な事だけで割り切れないことがたくさんあります。長期的な視野に立ってじっくりと取り組む躾(しつ)けや教育もまた然り、真の成果が表れるまでには、それなりの時間と観察が必要です。
ところで、やむにやまれぬ気持ちでわが子に手を上げる親の気持ちを考えたことがありますか?
心を鬼にしてわが子をたたく親の手の痛さと心の痛みは、たたかれる子供が受ける痛さより遥かに大きなものです。
仏教では、親子の関係は影が身に随うように一体不離のものと説かれています。人間のあらゆる過去の行ないは、業として命に刻まれます。わが子を打つのも因縁ならば、打たれるのもまた因縁です。親子の浅からぬ因縁に思いを馳せながら互いに宿業を見つめ、共に唱題に励んでこそ良好な親子関係を築くことできるのです。
百花繚乱の四月。桜梅桃李の個性を尊重しながら異体同心して折伏を実践し、法統相続を着実に進めて信心の畷(なわて)を固めてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年4月1日号より