今月の指針2月号「慢は高き山のごとし」
慢心ほど手に負えないものはありません。それは誰でも具わっている人間の心の一分でもあります。
折に触れて顔を覗(のぞ)かせる慢ずる心は、仏でさえ手を焼く曲者(くせもの)です。
天台大師は、「慢の高き山の如し、雨水(うすい)止まらず。」と教えています。大量の雨も山頂に止まることがありません。
同じように慢心が強ければ強いほど、功徳の法水は身に止まることなく流れ去ってしまいます。やがて人徳が枯れ、人心も離れて徳薄垢重(と くはっくじゅう)の境遇に成り下がってしまうのです。
信心とは、自分の心を信じることではありません。心こそ心を惑(まど)わす心であり、移ろい易く不安定なものだからです。
悪縁に紛動(ふんどう)され易(やす)いのも我が心、一番身近にあって思うに任せないのも我が心、人間の弱さの一面です。
意馬心猿(いばしんえん)、山の賊より心の賊の退治が難しいのです。
つまり信心とは、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と御書にあるように、我が心を仏の御心に任せることに他なりません。
『持妙法華問答抄』に、
「上根に望めても卑下(ひげ)すべからず。下根を捨てざるは本懐なり。下根に望めても驕慢(きょうまん)ならざれ。上根ももる(漏)ゝ事あり、心をいたさざるが故に。」
(新編298頁) と説かれています。
成仏の資格に、財産の多寡(たか)、社会的な地位、学歴の有無などは関係ありません。
いかに謙虚に法を求め抜くか、将又(はたまた)真摯(しんし)に一路求道の信心を貫くか、成仏の鍵はそこにあります。
もしそこに慢心があれば、両手で掬(すく)った水が指の隙間から漏れ出すように、いかに広大無辺な仏の御手といえども、そこから漏れてしまうのです。げに恐ろしきは慢心です。
また絶望は、我が仏性と仏の救いを否定する謗法に繋(つな)がります。
己(おの)れの仏性を固く信じ、大御本尊の甚深無量の功徳を確信して倦(う)まず弛(たゆ)まず仏性を磨く金剛不壊の信心が肝要です。そこに確かな成仏の果実があり実証があるのです。
仏の本懐は、下根下機の荒凡夫を救うところに真骨頂があることを忘れてはなりません。
寒気厳しい如月(きさらぎ)(衣更着)二月です。
宗祖御聖誕の妙(たえ)なる月に当たり、寒さもものかは勇気を奮い起こして折伏弘教に精魂を傾け、御報恩の誠を尽くしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2025年2月1日号より