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今月の指針 10月号 「鶴林」(かくりん)

仏の死を鶴林というのは、沙羅林(さらりん)の下で釈尊が入滅されたとき、その床に沙羅の木が垂れて棺を覆い、あたかも白い鶴が舞うようだったことに由来しています。

白色が成仏の相といわれるのもこれと無縁ではありません。


 釈尊と永訣(えいけつ)の時が訪れて弟子や信徒の胸に去来したものは、自分の親以上の優しさと暖かさをもって接してくれた慈悲深い温顔をこれを限りに見られない、という悲痛な思いでした。


 苦しい時も楽しい時も、悲しい時も嬉しい時も、死の恐怖に怯(おび)えた時も、いつも傍で癒(いや)し、激励してくれた釈尊。

その偉大な人がいよいよ涅槃(ねはん)に入る。

人々は天を仰ぎ、地に伏せ、またある者は地に頭を打ち付けて慟哭(どうこく)しました。

泣いて、哭いて、泣き叫ぶ人間の悲しみに諸天が感応して、沙羅林が燦然(さんぜん)と白く変わったのです。


 自分が今死んだとしたら果たして何人の人が悼(いた)み、心から涙を流してくれるだろう。

打算ではなく、真心から霊前に線香を手向けてくれる人は何人いるだろうか。

「40歳になったら自分の葬式の事を考えておけ!」とある本で読んだことがあります。

「そうか。とうとうあいつも逝(い)ったか!」と聞き流されるような人生では、何と虚(むな)しく悲しいことでしょう。

棺の蓋(ふた)が閉まって人間の評価が定まる。

そうしたことに思いを馳(は)せるのも、人生の今を充実させる上で大切なことではないでしょうか。


 翻って、今月は御会式の月。一切衆生の苦しみを一身に背負って未曽有(みぞう)の大難を忍ばれた大聖人は、私達にとって主人のごとき守護であり、師匠のごとき羅針盤であり、両親のごとき無償の愛そのものです。


 三徳兼備の大聖人が、いよいよ御入滅の時を迎えると聞いた弟子檀那の戸惑い、悲しみ、慟哭、それは想像を絶するものであったことでしょう。

しかし病を推して渾身(こんしん)の力を振り絞った『立正安国論』の御講義を目の当たりにした弟子檀那の悲しみは、瞬(またたく)く間に不退転の広布の決意に変わったのです。


 「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。」

の末文に御一代の御化導が凝縮されています。

それは私達に対する不朽の御遺誡(ごゆうかい)そのものです。


 御会式の月を迎え、心新たにこの御文を互いの胸に深く刻みましょう。

広大無辺な大慈大悲に浴しながら一層真剣に自行を磨き、慈悲心を発揮して折伏・育成に精魂を傾けてまいりましょう。



清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年10月1日号より

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