top of page
今月の指針11月号「人間は人間を知らない」 元品の無明

 人間は自分自身のことを知らない、それが元品(がんぽん)の無明(むみょう)です。御書に、

「無明は明らかなること無しと読むなり、我が心の有り様を明らかに覚(さと)らざるなり。」

    (『三世諸仏勘文抄』新編1415頁)

とお示しの通りです。

自分の一番近くにあって思うに任せないのがわが心なのです。心こそ心惑わす心、それが迷いの原点でもあります。


 『観心本尊抄』に、「木中の花」・「石中の火」の譬えがあります。

冬枯れの黒い木の中に満開の桜を連想することは難しい。しかし温暖な春になり風雨の縁に誘われれば、そこに見事な花が一斉に花開きます。これが木中の花です。

また路傍に転がる石に火があるとは思えません。しかし激しくぶつかるという縁があれば、石は火を発します。これが「石中の火」の譬えです。

どちらも迷える私達に厳然と仏の命があることの譬えです。


 十界互具・一念三千と説かれる私達の命の中に「仏界」という最高の命が確かにあることを知るのが成仏への第一歩です。

それに気が付かず、悩み苦しみ、自信を失って自暴自棄(じぼうじき)になる人も少なくありません。


 十界互具・一念三千とは、私達の命が善悪様々な可能性を秘めていることに他なりません。

その「因」を引き出すキッカケが「縁」であり、善悪様々な縁によって持てる可能性が引き出された状態が「果」です。

悪縁に会えば悪い可能性、善縁に会えば善い可能性が出て、それによって私達は、日々喜怒哀楽・幸不幸を感じながら生きているのです。


 ところで無数の縁の中に、最強・最高の仏界という命を引き出す縁、つまり「無上の縁」は世間にはありません。

それゆえにこそ末法救済の御本仏・日蓮大聖人が、

「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめなが(流)してか(書)きて候ぞ、信じさせ給へ。」

    (『経王殿御返事』新編685頁)  

と、仏の御命そのままを御本尊として顕して下さったのです。その限りない大慈大悲に応えする最良の道こそ折伏です。


 今を去る692年前の1333年(元弘3年)11月15日、唯授一人血脈付法の第三祖日目上人は天奏の途次、御尊体を美濃(岐阜県)の垂井の雪中に埋(うず)められました。

その広布への至心と不自惜身命の御精神をわが心として、奮起一番、異体同心の絆を深め更なる折伏に精魂を傾けてまいりましょう。

「我が心本来の仏なりと知るを 即ち大歓喜と名づく」

    (『御義口伝』新編1801頁)


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2024年11月1日号より

bottom of page