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​住職法話

​美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介

本当の幸せとは

 誰もが幸せな人生を求め、努力しています。

しかし現実は、皆、さまざまな苦悩を抱えています。


 現代社会を生きる私たちは、多くのストレスを感じ、また周囲の環境や対人関係で悩み、健康の不安、仕事上の問題、家庭不和、性格的歪み、経済苦などを誰もが持っています。


 人は目の前にある苦悩を打開するために信念と努力をもって乗り越えようとしますが、信念と努力だけでは、決してすべての問題を解決することはできません。

それは突然の交通事故、災害、生まれつきの身体障害、会社の倒産などが自己の努力のみで避けられないことからも分かります。


 真の幸せを求めるのであれば、正しい信仰を持つ以外ありません。


 正しい信仰・仏法とは、人生を幸せにする道を説き示した法理であります。

人はこの正しい道を信じ、これを基盤として歩んでいくとき、努力や信念も実り、

必ず価値ある人生へと変わるのであります。


 その証拠として日蓮正宗を信仰する人々の体験には、

医師にも見放された難病・大病を克服した例、

家庭の不和や性格的悩みを解決した例、

貧苦から立ち直った例

などが数多く存在します。


 正しい仏法である日蓮大聖人の説き顕わされた南無妙法蓮華経を実践することによって、

いかなる苦難をも克服する強い生命力が育まれ、深い智慧と慈愛に満ちた人間性が培われてきます。

それは何ものにも崩されることのない絶対的幸福の境涯なのです。


 そして自己の幸せは、家庭や周囲の人々へ、そして社会全体の幸福へと通じていくのです。


発心杖 |2013-09-15

第21号 H25.9.9 「亀の信心、うさぎの慢心」

皆様は「鍛錬」「百鍛百錬」という言葉を御存知でしょうか。

幾度もいくたびもたたき、鍛え、錬りあげるという意味の言葉であります。

一本の名刀を作るのに刀鍛冶は何度、焼き鍛え、鎚を打ち、研ぎ磨くことでありましょうか。

私たち人間も?真金の人?といわれるためには、やはり鍛えるということが必要なのであります。


 私たちの修行も同じであります。大聖人の御指南を常に深く体しつつ、衆生を真に導き、成仏せしめる道は三大秘法の御本尊以外にないのであるということを本当に確信し、その上から一歩でも二歩でも、五歩でも十歩でも進んでいくことです。

それが行の意味であります。


 「うさぎと亀」という譬えがありますが、「着実」という意味において、参考になる話であると思います。

あれは、足の速いはずのうさぎが負けました。

うさぎはピョンピョン跳んでいったけれども、「ここらでちょっと一眠り」と眠ってしまいます。

その間に亀は、倦まず弛まずノソノソ歩いていって、うさぎが目を覚ました時には、亀は目的地に到達していたのです。


 このうさぎの考え方のなかには、「亀なんかに負けない。自分は絶対に勝れているのだ」という傲慢な心、驕りがあるのです。

この驕りが、人間の一番の悪徳の意味があります。

この驕りがあるから油断するのです。

「自分はこれだけ立派なことをしてきた。自分以上の人間はいない。あとはみんな私についてくればいいのだ」


 結局、この慢心と驕りによってうさぎが負けるのです。

亀は目立たないし、見栄えもよくないかも知れない。

けれども、着々と自らの進むべきことに常に倦まず弛まず進みます。


 うさぎのような慢心を戒め、常に謙虚な姿勢で一歩一歩、地に足をつけて着実に亀のように前進するとき、ふと自分が歩いた道のりを振る変えるとき、大きな進歩と功徳があるはずです。


 信心の功徳にも一獲千金はありません。あくまでも信心の厚薄、志の積み重ねによるのでありまして、地道な、まじめな信心が肝心ということなのです。


 清涼寺支部の誓願目標の道のりのも、目の前にある一つ一つの折伏を坦々と確実に行っていく、歩みを止めず常に前進することこそが、誓願達成のカギであります。


発心杖|2013年9月15日

第20号 H25.9.3 「頑固な汚れを落とすには・・・」

世間には「苦は楽の種、楽は苦の種」という言葉があります。


 苦しみのなかに楽しみがあり、楽しみのなかに苦しみがあります。

楽しいことにかまけてそれだけに執われてしまうと、必ず苦しみがやってきます。

人生のなかにおいて苦しみと楽しみは、ちょうどあざなえる縄のようなもので、必ず苦楽ともに味わうものなのです。

「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて」

と、大聖人はお仰せです。


 私たちが生きていく上で、色んな形で苦難があることは、誰しもが認めるところですが、その苦難に、どう向き合っていくか、それが大切です。

難が来ることが人生では当たり前のことであるとして認めて、逃げなけません。

そして、この苦のなかに安楽があるのだと思うことができる命、そこに立ち向かっていく、強い命を持つことができるのが、これが本当の信心なのです。


 大聖人が仰せのように、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経と唱えていくところに、全てを乗り越えていける境界が得られるのです。すなわち私たちが自分の生活のなかで苦しみを楽しみにしていくには、南無妙法蓮華経と唱えること以外にないのであります。


 結局、さまざまな苦しみの原因も過去の自身の行いによるところでありますから、苦しみの原因を知り、これを正しく取り除いていかなければなりません。


 私たちの持っている罪障、宿業というものは、自分が過去世の知らないうちに作ってしまっており、そのなかでも苦しみの原因となる最大のもの、それは誹謗正法の罪です。

この一番恐ろしい、正法謗法の罪を消滅する道、それは折伏以外にないのです。


 折伏をすると、異常な迫害を受ける、難を受ける、嫌な思いもすることもあります。

しかし、法難に遭うことによって罪障を消していく命の頑固な汚れをとることができるのであります。


 例えば、手が泥で汚れたら、水で洗い落とせば綺麗になりますが、しかし、それが頑固な油で汚れていたら水だけでは落ちません。

洗剤や石けんを使わなければ綺麗にならないのです。

つまり、私たちの命の汚れというものも、世間的な罪だけだったら、法律や規則による処罰によって償うことも出来ます。

しかし、誹謗正法の罪によって受けた命の汚れは、この大聖人の正法を信じ、折伏を行じていく他はないのです。


 どうか皆様には苦悩の中にあっても、いかなる状況の変化があろうとも、一切を御仏智に任せ朗々と題目を唱え続け、いかに法難に遭おうとも折伏弘教に邁進されて、御本尊の大功徳と諸天の加護を得て自身の祈りを叶えていって頂きたいと願うものであります。


発心杖|2013年9月17日

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