
住職法話
美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介
今月の指針2月号「鍛錬」
元日、突如 能登半島を襲った大地震。被害の全容は未だ不明ですが、尊い命を落とされた方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。甚大な被災を受けられた地域の皆様に一刻も早い日常が訪れること を心からお祈り申し上げます。
鍛錬について、宮本武蔵は『五輪書』に、「千日の稽古を鍛といい、万日の稽古を練という」と述べています。剣豪修業の奥義だけに緊張感が漂(ただよ)いスキがありません。本来金属を打って鍛える鍛錬は、人の心や体や技を鍛える言葉として用いられています。千日にも万日にも、間断なき不断の響きがあります。
何事も、努力と持続が大事です。天才は有限、努力は無限です。努力は天才に勝るともいいます。スポーツ選手は、たった一日練習を休んでも、筋肉は衰え、技量が落ち、勝負勘も鈍るといいます。また有名なピアニストは、「練習を一日休むと自分にわかる。二日休むと批評家にわかる。三日休むと聴衆にわかる」と言ったとか。学問も稽古事も不断の努力と実践の累積が成功と栄光をもたらすのです。
翻(ひるがえ)って私達の信心修行も努力と持続が成仏の鍵を握っています。御書には、「受くるはやす(易)く、持(たも)つはかた(難)し。さる間成仏は持つにあり」(『四条金吾殿御返事』新編775頁)と。倦(う)まず弛(たゆ)まず生涯 不退転の信心が成仏の要です。流水は腐らず。止まって淀(よど)む水ではなく、滔々(とうとう)と流れる川のような信心を心掛けたいものです。
『御講聞書』には、
「水は昼夜不退に流るるなり。少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは申すなり」 (新編1856頁)とあります。
信心の努力と持続の先に成仏があり、「水の行者」の真面目がそこにあります。更に大聖人の誡めは続きます。
「月々日々につよ(強)り給へ。すこ(少)しもたゆ(弛)む心あらば魔 便(たよ)りをう(得)べし」(『聖人御難事』新編1397頁) と。
「蟻(あり)の一穴」と侮(あなど)るなかれ、僅(わず)かのスキを魔が狙っています。油断は禁物です。
信心は、内外の魔との戦いです。
昨日よりは今日、今日よりは明日と求道心を燃やし続けるところに、確かな成長と向上があります。進まざるは退転です。少しの謗法も見逃さず、魔に隙を与えず、いよいよ信心の畷(なわて)を固めましょう。不断の信行の累積に自行と化他の充実があり、成仏の境涯が確立されるのです。
鍛えの冬、厳寒の二月。雪中佐渡の大聖人に遥(はるか)に思いを馳(は)せて、奮起一番、折伏弘教に邁進してまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年2月1日号より
新年の辞 「信心の一念に億劫の辛労を尽くそう!」
令和六年、新年明けましておめでとうございます。
講中の皆様には、気分一新、気力充実して「折伏前進の年」をお迎えのこととお喜び申し上げます。
折伏と前進、耳に馴染(なじ)んだテーマです。
そこに新たな息吹きを吹き込んで、創意工夫を凝(こ)らし、弛(たゆ)まぬ精進を重ねてまいりたいと思います。
布教は宗教の命です。
折伏なければ育成なし。育成に情熱を注がなければ清涼寺の興隆も広布の未来もありません。日々発心、惰性に陥ることなく、瑞々(みずみず)しい気分を持続して信行学を磨くことが大切です。
勤行は基本中の基本です。
その功徳は甚大でも、万人に開かれた易しい修行という意味では凡事といえます。だからこそ徹底が大事なのです。
その着実な積み重ねが大きな功徳を生み、実り豊かな一年となって有為な人材が輩出し、広布の未来へつながっていくのです。
順風が吹けば得意になって感謝を忘れ、逆風に見舞われれば依頼心が頭を擡(もた)げて御本尊に縋(すが)る、これは凡夫の習いです。宿業に負けて苦しむのは、信心に甘えた結果です。
『法華経涌出品』の
「昼夜に常に精進す 仏道を求むるが為の故なり」とあります。
この経文を大聖人は、文底下種の立場から、
「此の文は一念に億劫(おっこう)の辛労(しんろう)を尽くせば、本来無作(むさ)の三身念々に起こるなり。所謂(いわゆる)南無妙法蓮華経は精進行なり。」
(『御義口伝』新編1802頁)
と説かれています。
一念に億劫の辛労を尽すとは、自行から化他に及ぶ止暇断眠(しか だんみん)の修行に他なりません。無始の過去と無終の未来が凝縮(ぎょうしゅく)した現在の一瞬に強い一念を込めて題目を唱えれば仏智を涌現し、境界を開き、人生航路に行き詰まることがありません。
南無妙法蓮華経の題目に全生命を注ぎ込まれた日蓮大聖人の尊い御化導を遥かに偲(しの)び奉り、血脈付法の御法主上人猊下に師弟相対する信心に妙法の功徳は沸々(ふつふつ)とわき上がってくるのです。
唱題の一念に億劫の辛労を尽くして境界を切り開き、竜頭竜尾(りゅうとう りゅうび)実り多き「折伏前進」の366日でありますことを心よりお祈り申し上げ、新年の辞といたします。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
新年の辞 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年1月1日号より
今月の指針12月号「折伏に王道なし」
『十字(むしもち)御書』に、
「蓮はきよ(浄)きもの、泥よりい(出)でたり」
(新編1551頁)と。
泥沼に大輪の華を咲かせる蓮華は、二千年もの悠久の時を経て開花する永遠の華です。同時に根の朽ちない因果倶時(いんがぐじ)の不思議な花でもあります。
妙法の偉大な功徳は、その蓮華に譬えられ、その主体者である久遠元初の御本仏は、日蓮と名乗られて五濁に塗れた末法にお生まれになりました。「日蓮」とは、その体を表して余りある素晴らしい御名です。云わく、「明らかなる事日月にす(過)ぎんや。浄き事蓮華にまさ(勝)るべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり。」
(『四条金吾女房御書』新編464頁)
私達の生きる世界は、表面の華やかさとは裏腹に、一皮剥けば煩惱と欲望の渦巻く娑婆世界です。
仏教ではこれを耐え忍ぶ世界、忍土(にんど)と呼びます。経済苦や病苦にはじまって人間関係・家庭不和・誹謗中傷、果ては戦争に至るまで、苦悩の種は尽きません。
しかし蓮華が泥 沼の深さが深いほど大輪の華を咲かせるように、煩惱・業・苦が深いほど本物の信心で真の幸せを勝ち取ることができるのです。
悩むがゆえに唱題で仏智を磨いて歓喜を生み、不幸のゆえに唱題で真の幸せを勝ち取ることができる。三大秘法の信心は、絶望からの希望の光、勇気と元気が芽生える生きる力の源です。苦しみは、そこから逃れようとすればするほど纏(まと)わりつく厄介者。ならばそれに負けない正しい信心の根を深く張り、強く豊かに生きることが大事です。
学問に王道なし。折伏にも王道はありません。そこに秘訣や虎の巻はありません。
題目を上げ切って確信をつかみ、智慧を養い、勇気を身につけ、後は最善の努力が全てです。私達の信力と行力に上限はありません。
折伏は抜苦与楽の慈悲行です。粗削りでも稚拙でも未熟でもいい、一途(いちず)に相手を思いやる誠意と熱意があれば、相手の心は動くのです。六難九易を引くまでもなく、折伏は難事中の難事です。だからこそそこに無上の価値と功徳があることを忘れてはなりません。
送った日々を見つめ直して心機一転、明年につながる精進努力を重ねてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年12月1日号より
今月の指針11月号「人の短を言う事なかれ」
秋もだいぶ深まって、はや晩秋です。猛威を振るった酷暑が嘘のような寒気に、今夏の異常な暑さが懐かしく思えて妙な気分です。
芭蕉の句に、「物言えば 唇寒し秋の風」という人生訓を読み込んだ名句があります。これは、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」という「座右の銘」に添えられた有名な一句です。
芭蕉は、自分の長所は極力口に出さず、他人の長所を見つける努力を惜しまなかったのです。これを弟子に も教えて門下の融和(ゆうわ)を図り、切磋琢磨する門弟の中から其角(きかく)や去来(きょらい)など蕉門十哲(しょうもんじってつ)と呼ばれる優秀な人材が輩出したのです。
お互いに悪口は厳しく封印し、和気藹々(わきあいあい)とした気風の中で不朽の名作が続々と誕生したのです。芭蕉ほどの俳聖が、常に心掛けた謙虚な姿勢に頭が下がります。
翻って異体同心は、私達の信心修行の鉄則であり、広宣流布の要です。大聖人は、『松野殿御返事』に、
「法華経を持つ者をば互ひに毀(そし)るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。」(新編1047頁)
と仰せになって、同志間の誹謗中傷を厳に誡められています。
謗法に匹敵する悪行だからです。日常生活にあって、ついうっかり陰口をたたいて後味の悪さを経験することは少なくありません。それが災いに発展し、鉄壁な団結が綻(ほころ)ぶこともあります。正に災いは口より出でて身をやぶるのです。
清らかな信心で六根を磨けば、自ずと人の長所に目がいって相手を尊敬する心が芽生えます。そこに慢心のつけ入る隙はありません。
私達は、最高の信仰を持って折伏を行ずる地涌の眷属です。どこまでも相手の仏性を敬い、「謗法を憎んで人を憎まず」の精神を堅持して折伏に臨むことが大事です。
今を去る690年前の11月15日。
垂井(たるい)の雪中に広布願業の魂を埋められた第三祖日目上人の壮絶な御最期を遥かに偲び、忍辱(にんにく)の衣を纏い、折伏逆化の菩薩行に更なる精進を重ねてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年11月1日号より
今月の指針10月号「生きた学問、生きた信仰」
現在、私達の身の周りには、たくさんのLEDが使用されています。
家庭にあっては超薄型テレビ、車のヘッドライトや逆光に強い交通信号機、街のあちこちで目にする電光掲示板、携帯電話の液晶画面、飛躍的に容量が増したレイザーディスクなど、数え上げればきりがありません。省力化も進み、環境にも優しく、温暖化対策の切り札として大いに期待されています。
「20世紀は白熱灯が照らし、21世紀はLEDが照らす」。
エジソン以来の常識を覆(くつがえ)して20世紀中は不可能とまで言われた青色LEDの革命的な発明によってあらゆる色を作り出すことができるようになったのです。基礎理論の「実用化」が、ノーベル物理学賞受賞の決め手になったことは記憶に新しいところです。
「生きた学問」とは、正にこういうことを指すのです。
私達の信仰も、単なる信心のための信心であってはなりません。
功徳が原動力となって生活が豊かになり、生きる勇気と智慧を与えてくれるものでなければ価値がありません。単なる気休めや一服の清涼剤でなく、命を見つめ、真に生きる力であってこその信心です。
私達にとって朝夕の勤行は、基本中の基本です。
だからといって勤行さえしていればいいのではありません。その実践を基盤として何事にも真剣に取り組み、人一倍努力を重ねることが大事です。そこに旺盛な生命力と智慧が涌いてくるのです。
勝れた理論も実用化によって初めて生活が豊かになります。信心即生活も、体である信心の功徳が生活の上に溢れてこそ揺るぎない境界、生きること自体が楽しい自受法楽の境界が開かれてくるのです。
自行が満ちて境界が開け、やがて化他の心が芽生えて折伏の意欲を掻き立てる。
自行の充実は折伏の原動力です。決めて祈って動けば、折伏は必ず実を結びます。
御会式の十月を迎えて一層信心の確信を深め、地涌の菩薩行に励んで価値ある人生を生き抜いてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年10月1日号より
今月の指針 9月号「大石も海に浮かぶ、船の力なり」
『光日房御書』に、
「針は水にしず(沈)む。雨は空にとゞ(止)まらず。蟻子(あり)を殺せる者は地獄に入り、死にかばね(屍)を切れる者は悪道をまぬか(免)れず。」
(新編963頁)
と、殺生の罪が分かり易く説かれています。小さな針でも水に沈む、またどんな小さな雨粒でも必ず地上に降りてくる。小さな針や雨粒に譬えられる小さな命でも、命に違いはありません。殺せば悪道を免れることはできないのです。
死と背中合わせに生きる侍の息子を持つ光日房。その最愛の息子は、何かの事件に巻き込まれて人を殺め、自らも横死したのでしょう。彼女は、不憫(ふびん)な我が子の後生を案じ、悲嘆に暮れる毎日を送っていたに違いありません。そんな境遇で頂いた御消息が、『光日房御書』です。「理由はともあれ、人の命を奪って親に先立った息子は、一体どんな処に生まれるのでしょうか。どうかお教え下さい、大聖人様!」
この哀願にも似た問いに大聖人は、まず世間的な道理の上から殺生堕地獄の因縁を説かれています。その上で一転、仏法に目を向ければ、全く違った変毒為薬の視界が開けてくると諭されたのです。それは他でもない、妙法の大功徳と正しい信心と真剣な唱題です。
「小罪なれども懺悔(さんげ)せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ。」
と。どんな大石(大罪)でも海に浮かべることができる、それは船の力(妙法)です。またどんな大火(大逆)でも、消すことができる。それは水の 力(唱題)です。勿論そこに真剣な唱題、堅い信心の力が求められるのは言うまでもありません。
勇気を持って、強い確信を持って一層信心に励みなさいと、厳愛の教導、渾身の激励をされたのです。
眠られぬ夜を過ごしていた光日房の心に、さぁーっと一条に光が差し込み、安堵の心が広がっていったことは想像に難くありません。
生まれてこのかた謗法の罪、殺生の罪を犯さない人間などはいません。だからこそ過去遠々劫・現在漫々の罪障消滅の勤行を欠かすことはできないのです。いかなる大逆も深く懺悔して妙法を行ずれば、立ち昇る太陽のもとでたちどころに消え去る朝露にように罪障が消えていく。
だからと言って信心に甘えは禁物です。よくよく懺悔の心をもって真摯(しんし)に自行化他の信心に取り組むことが最も大事です。三大秘法の大御本尊の偉大な力用(りきゆう)を具えた大船に乗り、自らの成仏を願い、世のため、人のため、広布のため、折伏を行い尊き命を燃やし続けてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年9月1日号より
今月の指針 8月号「成功や賞賛もまた試練」 八風(利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽)
人間の心には、いつも八つの風が吹いている。誰もが喜ぶ四順(しじゅん)と、心に逆らう四違(しい)です。御書に、
「賢人は八風と申して八のかぜ(風)にをかされぬを賢人と申すなり。」
(『四条金吾殿御返事』新編117頁)と。
賢人とは、この八風に侵されない人のことをいうのです。
利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽の八つの風です。
利(うるおい)は、利益の利、即ち潤いです。仕事や商売がうまくいって財産ができると、つい有頂天になるのが凡夫の習いです。そこに 油断や慢心が生まれ、魔に狙われるのです。
次は衰え。年をとっても、病気になっても決して弱気になってはいけません。愚癡は禁物です。大聖人は、
「年はわか(若)うなり、福はかさなり候べし」
(『四条金吾殿女房御返事』757頁)と仰せです。
唱題の功徳で、若々しい老後、豊かな老境、不屈の精神を養うことが大事です。
更に毀(やぶれ)と譏(そしり)、人前で罵倒されたり、陰口を叩かれたり、誰にでもある経験です。しかし他人の口に戸は立てられません。折伏に誹謗中傷はつきものです。忍辱の衣を忘れてはいけません。自分に恥じるところがなければ、強い心を養って打ち勝っていけばいい。もし自分に過ちがあれば真摯に反省し、変毒為薬していけばいいのです。
次は誉(ほまれ)と称(たたえ)です。名誉と賞賛。褒めら れて怒る人はいません。成功を喜ばない人もいません。しかしそこに落とし穴があるのです。試練とは苦難だけではありません。賞賛だって試練なのです。「褒められたら気を付けろ!!」と言います。賞賛を励みとして一層精進を誓う、成功を機に更なる高みを目指す。「実るほど頭の下がる稲穂かな」の精神が大事です。
最後は、苦と楽です。諸難には打ち克つ、楽しみには溺れない。苦の中に楽があり、楽の中に苦があることを忘れてはなりません。
八風に侵されない不動の境界こそ真の幸福な人生です。
御金言に云はく、
「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。」
(『四条金吾殿御返事』991頁)
一閻浮提第一の大御本尊を懐き、信心を根本として広布に生きる私達が肝に銘ずべき永遠の指針です。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年8月1日号より
今月の指針 6月号「風こそ夜の窓をうつらめ 」
「おのづから よこしまに降る
雨はあらじ 風こそ夜の
窓をう(打)つらめ」
配流地・佐渡から鎌倉への帰途、駿河の三沢小次郎に日蓮大聖人が贈られた一首です。
本来 雨は、天から真っ直ぐ降ってくるもの、自ら横殴りに降ることはありません。にもかかわらず夜の窓を激しく打つのは、横殴りの風が吹くからです。
私達の命は、善も悪も両方具えた善悪不二の命です。
その命が濁り、三毒に犯されて苦悩に喘(あえ)ぐのは、過去の罪障や誤った宗教や思想などの悪縁によるからです。
人の命は善か悪か。これは人類永遠のテーマです。
性善説に対して性悪説は、人間は放っておくと何をするかわからない存在、だから法律や規則が必要だと説きます。
口約束など信用されない欧米社会では、まず契約です。
キリスト教の原罪をもととする性悪説が社会の根底にあるからでしょう。神との約束を守ってこそ人間は救われると説いています。
これに対して、善悪無記(むき)を説く仏教は、縁というキッカケが善悪の分岐点、だから縁を大事にするのです。
人の命は、地獄から仏界までの十界が具わった一念三千の当体です。そのうちどの命が顕れるか、それは善悪様々な縁によります。
いずれにしても、仏界の具わった命は、かけがえのない無上の財です。
悪縁に紛動されず、宿業に押し流されない不動の境界を確かなものにするには、無上の縁が欠かせません。
それが久遠元初本因妙の南無妙法蓮華経の題目です。
その根源を日蓮大聖人は、御本仏の立場から三大秘法の大御本尊として建立されました。
今 時代は、五濁渦巻く末法です。この御本尊を信仰の対象として勤行・唱題に励む以外に真の成仏の道はありません。
ところで冒頭の和歌を賜った三沢小次郎は、この時、何らかの困難に直面して窮地(きゅうち)に追い込まれていたのかもしれません。
大聖人は、謗法と悪縁を風、人の命を雨に譬えて、悪縁に負けない純粋な信心を貫いて難を乗り越えろ!と激励されたのです。
翻(ひるがえ)って清涼寺は、広布を目指す私達の蘭室(らんしつ)であり、麻畝の性(まほのしょう)に他なりません。
そこを信心練磨の道場として蘭室の友が集い、声を掛け合い、折伏に躍動する。
法華講の使命を果たすとは、そうした麗しい異体同心の躍動の中にあることを肝に銘じ、更なる精進を誓い合いましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年6月1日号より
今月の指針 5月号「目は口ほどに物を言う」
『六難九易抄』(ろくなんくいしょう)に、
「人の身の五尺六尺のたましひ(神)も一尺の面(かお)にあらはれ、一尺のかほ(顔)のたましひも一寸の眼の内におさまり候。」
(新編1243頁)
と。五尺、六尺ほどもある人間の身体も、その魂は一尺(約30センチ)の顏に現れ、更にたった一寸(約3センチ)の両眼に収まるのです。
様々な縁に触れて次から次へと目まぐるしく移り変わる心模様が、僅か3センチほどの眼に現れる、考えてみれば不思議なことです。
「目は口ほどにものを言う」、「目は心の窓」と言われますが、蓋(けだ)し名言です。
ところで、言葉に出さなくても相手の目を見るだけで、互いの思いは自ずと伝わるものです。
話をする時は相手の目を見なさい、と子供の頃はよく言われたことを懐かしく思い出します。
人の話をしっかり聞くためには、その目をよく見ることが大事、それは礼儀でもあります。
ところで相手を深く思いやる心があれば、自然に優しい眼差しが生れます。
やがて心が通じ合い、心の距離が近くなり仲が深まります。
心豊かで眼福に富んでいる人には、他人の長所ばかりが見え、心が貧しく眼福の乏しい人には、他人の短所ばかりが目につく、これもまた事実です。
大聖人は、「功徳とは即身成仏なり、また六根清浄なり。」と説かれています。
六根の初めが眼根。福徳溢れた目を具え、笑顔を絶やさず穏やかに人と接するには、唱題し、心を磨き、眼根を清浄にすることが大切です。
目に福徳が具われば自分も幸せになり、また周囲も幸せにすること受け合いです。
折伏は、相手を遣(や)り込める 理論闘争や法論ではありません。
どこまでも相手を思い遣って苦悩から救い出す抜苦与楽の慈悲行です。
『教行証御書』に、
「和(やわら)かに又強く、両眼を細めに見、顔貌(かんばせ)に色を調(ととの)へて閑(しず)かに言上すべし。」
(新編1107頁)
とあります。
日夜折伏に臨む私達にとって、常に心がけるべき御指南です。
決して感情に走ったり、声を荒げることなく、あくまで冷静に温和な表情をもって接し、確信をもって相手の過ちを指摘することが大事です。
初夏の風が爽やかな好季です。
懈怠(けたい)なき勤行・唱題で培(つちか)った化他の力を、隋力弘通の力に変えて折伏に躍動し、尊き地涌の使命を果たしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年5月1日号より
今月の指 針 4月号「永遠は一念の中にあり」
原因のない結果はありません。
しかし物事の原因がわからない時に、私達は、結果だけを見て「不思議だ、不思議だ」と叫びます。
しかし凡眼凡智には見えなくても、因果の道理は厳然と具わっているのです。
私達は、人の眼をごまかすことはできても因果の裁きを免れることはできません。
すべての物事は、三世を貫く因果の道理に貫かれています。げに恐ろしきは因果の道理、仏眼を恐れよ!です。
因果を説かない宗教、たとえ説いても曖昧にしか説かない宗教は、外道です。
日蓮大聖人は、膨大な宗教の勝劣浅深を正しく判断する方法として、五重相対を説かれました。
その最初が内外相対です。そこで因果を説かない宗教を外道と選別したのです。
『開目抄』に、
「過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし。」
(新編524頁)
とあります。
三世の因果を無視した不自由窮まりない姿が説かれています。
過去の命を因として現在の果があり、それが因となって未来の生命へ繋がっていく、これが三世兩重の因果を貫く正しい生命観であり、生命の真実の相(すがた)です。
現在の 自分の姿は、過去の業因の結果に他ならず、未来の自分も現在の命の中にあります。
三世を見据えた人生こそ、人間としての正しい生き方の基本であることを忘れてはなりません。
ところで三世永遠の生命と言っても、詮じ詰めれば瞬間の命の連続です。
一瞬一瞬の生命の中に過去・現在・未来の全ての生命が含まれています。
御書には、
「南無妙法蓮華経は三世一念なり。」
(『御義口伝』新編1801頁)
と説かれています。
瞬間の一念に永遠に崩れない幸せを築く方法は、三大秘法の御本尊への絶対の信心以外にありません。
御本尊に向かって真剣に題目を唱えれば無始の罪障を消して宿命転換し、永遠に崩れることのない不動の境界を確立することできるのです。
四月といえば立宗宣言の月です。
激しい葛藤の末に、不退転の決意で法界に放たれた末法の闇を突き破る一大宣言でした。
大聖人の末弟に連なるわれら法華講は、その精神を今に受け継ぐ地涌の眷属です。
更なる奮起を誓い、自行から化他に及ぶ悔いなき精進を重ねてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2023年4月1日号より