
住職法話
美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介
今月の指針12月号「臨終 只今にあり」(りんじゅう ただいまにあり)
西洋のある偉人は、どんなに金にケチな人でも時間には実に寛大、求められるままにすぐに差し出す、と歎いています。
一日二十四時間、平等に与えられた時間を効率的に大事に使えば、快適な生活と有意義な人生が約束されるのに、凡夫は無為に過ごして「忙しい、忙しい」が口癖です。それは、単に時間の使い方が下手で、無駄が多いのかもしれません。
時間の使い方が、人生の幸・不幸さえ左右します。私達の命は永遠、しかし限りある今生の命は、瞬(またた)く間に過ぎ去る無常の命です。努々(ゆめゆめ)無駄に費やしてはなりません。
「死は一定」、生ある者は必ず死する習いです。しかもその順序に定めはありません。
夭折(ようせつ)、人生半ばの不本意な死、子に先立たれる親の無念、見舞われた人が見舞ってくれた人の葬儀に出向くなど、人生は百態百様です。
定年して時間に余裕が出来たら、ゆっくり人生を考えよう。信仰? まだその必要を感じない。年をとって死を意識する頃になったら考えるよ。よく聞く話です。
しかし人生一寸先は闇。しかも老境まで難なく生 きる保証は誰にもありません。
だからこそ日蓮大聖人は、
「人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」
(『妙法尼御前御返事』新編1482頁) と。
いつ訪れるか知れない臨終、そして死をまず最優先に学ぶべきことを教えられているのです。
自分はあと何年生きるか、いつ寿命が尽きるかわからない。今日が最後かもしれない。
「臨終只今にあり」の緊張感の中にこそ充実した一日が生まれます。
人生は、どれだけ長く生きたかより、どのように生きたかがより大事です。その為に私達は、大聖人が遺して下さった三大秘法の大御本尊を唯一無二の大良薬と固く信じて、信心修行に励むことが最も肝要なのです。
「命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり。」
(『富木入道殿御返事』新編488頁)
お互いに宿縁薫発して妙法を持つ身となった今、かけがえのない命を少しでも広布に捧げて仏国土建設にお役にたつことこそ、最も価値ある人生というものです。
ラストスパートの極月(ごくげつ)十二月、悔いなき日々の実践が、明年の幸先のいいスタートにつながるよう、更なる奮起と精進を心よりお祈りいたします。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年12月1日号より
今月の指針11月号「人間は人間を知らない」 元品の無明
人間は自分自身のことを知らない、それが元品(がんぽん)の無明(むみょう)です。御書に、
「無明は明らかなること無しと読むなり、我が心の有り様を明らかに覚(さと)らざるなり。」
(『三世諸仏勘文抄』新編1415頁)
とお示しの通りです。
自分の一番近くにあって思うに任せないのがわが心なのです。心こそ心惑わす心、それが迷いの原点でもあります。
『観心本尊抄』に、「木中の花」・「石中の火」の譬えがあります。
冬枯れの黒い木の中に満開の桜を連想することは難しい。しかし温暖な春になり風雨の縁に誘われれば、そこに見事な花が一斉に花開きます。これが木中の花です。
また路傍に転がる石に火があるとは思えません。しかし激しくぶつかるという縁があれば、石は火を発します。これが「石中の火」の譬えです。
どちらも迷える私達に厳然と仏の命があることの譬えです。
十界互具・一念三千と説かれる私達の命の中に「仏界」という最高の命が確かにあることを知るのが成仏への第一歩です。
それに気が付かず、悩み苦しみ、自信を失って自暴自棄(じぼうじき)になる人も少なくありません。
十界互具・一念三千とは、私達の命が善悪様々な可能性を秘めていることに他なりません。
その「因」を引き出すキッカケが「縁」であり、善悪様々な縁によって持てる可能性が引き出された状態が「果」です。
悪縁に会えば悪い可能性、善縁に会えば善い可能性が出て、それによって私達は、日々喜怒哀楽・幸不幸を感じながら生きているのです。
ところで無数の縁の中に、最強・最高の仏界という命を引き出す縁、つまり「無上の縁」は世間にはありません。
それゆえにこそ末法救済の御本仏・日蓮大聖人が、
「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめなが(流)してか(書)きて候ぞ、信じさせ給へ。」
(『経王殿御返事』新編685頁)
と、仏の御命そのままを御本尊として顕して下さったのです。その限りない大慈大悲に応えする最良の道こそ折伏です。
今を去る692年前の1333年(元弘3年)11月15日、唯授一人血脈付法の第三祖日目上人は天奏の途次、御尊体を美濃(岐阜県)の垂井の雪中に埋(うず)められました。
その広布への至心と不自惜身命の御精神をわが心として、奮起一番、異体同心の絆を深め更なる折伏に精魂を傾けてまいりましょう。
「我が心本来の仏なりと知るを 即ち大歓喜と名づく」
(『御義口伝』新編1801頁)
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年11月1日号より
今月の指針10月号「創業か、守成(しゅせい)か」
名君として名高い唐の太宗が、あるとき家臣たちに尋ねました。
「国家の創建と維持経営は、どちらがより困難だろうか。」と。
すると創業の困難を身をもって知る宰相(さいしょう)・房玄齢(ぼうげんれい)は、
「国家の創業に決まっています。群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代を勝ち抜くことがいかに大変か。天下統一の難事業がそれを雄弁に物語っています。」
これに対して側近ナンバーワンの魏徴(ぎちょう)は、
「いやいや、そんなことはありません。守成こそ困難です。どんなに苦労して天下を取っても、時が経つにつれて気が緩み、安逸(あんいつ)を貪ってしまうのが人の習い、世の常です。やがて政治が腐敗し、国家は衰退の道を辿っていくのです。歴史がそれを証明しています。」
と即座に反論したのです。
黙って耳を傾けていた太宗は、
「どちらも最も。しかし今は既に創業は過去のものとなった。これからは創業の難事を忘れず、心を一つにして守成の困難を乗り越えていこう。」と決意を語ったといいます。
『貞観政要(じょうがんせいよう)』にある有名な故事の一つです。
人間は得てして外敵より内敵に弱いもの、人の集まる組織もまたしかりです。外敵には結束して立ち向かっても、平和の訪れと共に油断が生まれ気は緩み、我儘(わがまま)が出て、すかさずそこを魔に狙われるのです。
山賊は討ち易いが、心の賊は討ち難い、正に「己心(こしん)の魔」は難敵です。
建設の槌音(つちおと)の中に破壊の芽は宿っています。いついかなるときにも、創業の苦難を冬の時代として銘記することが肝心です。
「すこ(少)しも たゆ(弛)む心あらば魔 たよ(便)りを う(得)べし」
(『聖人御難事』新編1397頁)
とは、宗祖の厳しい誡めです。
また
「受くるは やす(易)く 持(たも)つは かた(難)し。さる間成仏は持つにあり」
(『四条金吾殿御返事』新編775五頁)
とは、成仏の鍵を握る永遠の御指南です。
「願ふても願ふべきは仏道、求めても求むべきは経教なり」。
常に初心を忘れず、魔につけ入る隙を与えず、飽くなき求道心を燃やし続けることが大切です。
御会式の月を迎え、桜花で荘厳された御宝前に御報恩と更なる折伏前進を誓願いたしましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年10月1日号より
今月の指針9月号 「疾きこと風の如く、徐かなること林の如し」 風林火山
「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」
中国の古典『孫子の兵法・軍争』にある有名な風林火山の一説です。
戦国時代の勇将・武田信玄は、これを自軍の軍旗に大書して、敏捷(風)・沈着(林)・果敢(火)・不動(山)、臨機応変・緩急自在に軍を操って勝利をおさめたのです。
私達の一生は、競争社会を生き抜く戦いの連続です。風林火山は、そんな厳しい人生を生き抜く指標の一つです。
ジッと時を待つ、一転好機到来すれば果敢に挑戦する。燃えるような情熱で事に臨む、時に求められる冷静沈着な判断、状況に応じて多岐多様です。
これは広布の戦いにも通じます。
下種先があれば、疾きこと風の如く、疾風(はやて)のように飛んでいく。そこでじっくりと先ず相手の話に耳を傾ける。徐なること林の如しです。しかしひとたび談(だん)、謗法に及べば、侵掠すること火の如く、臆することなく破折です。
最後は、山の如く揺るぎない信心の確信が物を言うのです。
それは総本山で仰ぎ見る壮麗な富士の雄姿そのものです。その実践は決して容易ではありませんが、折伏実践の手引きとして心得れば、勢い折伏にも力が入るというものです。
ところで私達の信心の目的は、成仏の確立です。決して煩悩五欲に塗(まみ)れた人間が、悟り澄ました存在になることではありません。むしろ煩悩も欲望も切り離すことなく生きる力に変えていく、信心の醍醐味もそこにあります。
悩むが故に題目を唱え、不幸の故に唱題する。災い転じて福となす変毒為薬(へんどく いやく)の功徳は無上の法悦、宿業転換・転重軽受(てんじゅう きょうじゅ)は生きる希望です。
目まぐるしく動く現代社会。表面の華やかさとは裏腹に悪縁の充満する娑婆世界(しゃばせかい)です。しかしそこが紛(まぎ)れもなく、私達の生きるフィールドです。逃げるわけにはいきません。
だからこそ三大秘法の大御本尊を人生の羅針盤(らしんばん)に据(す)えて強い信心を磨き、深い智慧を身につける以外に成仏を確かにする道はないのです。
連日酷暑(こくしょ)が続く異常気象。これも信心の目で見れば、わが身を鍛える善知識です。
自行の充実と共に一層折伏育成に精魂を傾け、流れる汗を拭いながら尊い地涌の使命を果たしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年9月1日号より
今月の指針8月号「自業自得(じごうじとく)」
人は誰しも困難に遭遇し、苦境に陥った時は、その原因を外に求めて時代を恨み、社会や周囲を憎んだりしがちなものです。それが真の解決にならないことは重々承知の上で、つい口をついて出てしまうのが愚痴というものです。
日蓮大聖人の御在世当時、最愛の信徒であった四条金吾は師匠の教えを忠実に守り、誰よりも折伏に励みました。案の定、主君や同僚の反発と怨嫉(おんしつ)は半端なものではありませんでした。いくら信心とはいえ、そんな矢面に立たされたら、愚痴の一つや弱音の一つも吐いてもみたくなるのが人情というものです。
その時の大師匠・大聖人の御指南は、次のようなものでした。
どんな逆風が吹こうと周囲を恨んだり、相手を憎んだりしてはいけない。弱音を吐くな、愚癡も言うな、法を下げて後世に恥を残すな、と厳しく誡められたのです。
もとより私達の命は、因果の道理に貫かれた三世永遠の命です。
無始以来の宿業は、細大(さいだい)漏らさず自らの命に刻まれています。そこには、少しのおまけも誤魔化しもありません。あらゆる苦悩と困難を自業自得と心得て、成長の試練と考えよ、大聖人は厳愛の叱咤激励をされたのです。
厳しくも、これが真の信仰者の生きる道というものでしょう。
人生の苦楽は、過去に生きた結果に他なりません。それが因となり、御本尊という無上の縁を伴って永遠の輝ける未来が決まっていくのです。
今の自分を何より大事にして信心の一念に億劫(おくごう)を尽くし、宿業にも時代の荒波に押し流されない衆生所遊楽の境涯を悠々と切り開いていきたいものです。
連日の猛暑も信心の目から見れば、わが身を鍛える善知識。自分を成長させる試練です。広布の舞台で躍動して流す折伏の汗は値千金、無始以来の罪障消滅につながる尊い汗に他なりません。
熱中症には勿論十分気をつけながら、酷暑も味方につけるほどの心意気で、
「勇気をもって
まずはひと言」
を合言葉に、勇気凛々(りんりん)折伏弘教に精魂を傾けてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年8月1日号より
今月の指針7月号 「白烏(はくう)の恩 忘るべからず!」
颯爽(さっそう)と風を切って走る自転車。近年は環境保護や自然エネルギーへの関心の高まりと共に健康的な「優れもの」として世界的に脚光を浴びているらしい。その轍(わだち)は、僅か3センチ。しかしその何倍もの道幅がなければ、路上を走ることはできません。
私達は、生れてこの方、無数のものに支えられながら生きています。「人」という字は、人が支え合う姿です。支え合い、助け合って生きていることを忘れてはなりません。父母の恩・国主の恩・一切衆生の恩、そして三宝の恩、どれも絶対に忘れてならない恩徳です。
歯が抜けて噛み締める親の恩。両親の無償の愛は、尽くしても尽 くしきれるものではありません。人の親となり、年老いて初めて実感できるかけがえのない恩徳です。長じて社会に出れば、国土社会から受ける有形無形の恩恵も計りしれないものがあります。
所詮 社会は、人と人との繋がりです。たった一度の食事でも、そこには数え切れない人手がかかっています。一切衆生の恩恵がなければ、一日たりとも生きることはできません。
だからこそ「皆仏になれ」と思う化他の心が大事なのです。
これらの恩に報いて実りある人生を送るには、正しい仏法僧の三宝の恩を報じて人格を磨くことが最も大事です。今、時代は五濁に塗れた悪世末法。
その時代に適った三宝は、本門戒壇の大御本尊を根本とした下種三宝以外にありません。三大秘法の南無妙法蓮華経の御本尊を通してのみ真の成仏、真の幸福が叶うことを銘記しましょう。
自転車は、轍の何倍ものゆとりがあってこそ、悠々と走ることができる。私達末法の荒凡夫は、四恩の恩恵があってこそ自受法楽(じ じゅほうらく)の充実した日々を送ることができる。
その根本にわが身を妙法に導いた「白烏の恩」(はくうのおん)があることを忘れてはなりません。この大恩をわが身に深くんで、謗法に染まった「黒烏」を折伏するのが法華講の使命というものです。
さあ!一年の折り返し、後半最初の七月です。厳夏(げんか)を制して、『立正安国論』の破邪顕正の正義に燃えて折伏を実践し、共に手を携(たずさ)え報恩の誠を尽くしてまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年7月1日号より
今月の指針6月号 「南橘北枳(なんきつほっき)」
表題は、『南条兵衛七郎殿御書』にある、
「江 南(こうなん)の橘(たちばな)の淮北(わいほく)にうつ(移)されてからたち(枳殻)となる」 (新編324頁)の内容を簡潔に表した四字熟語です。
中国の大河・揚子江の南に生育する高貴な橘も、気候風土が大きく異なる対岸の淮北に移植すれば、その実も食べられない枳(からたち)に変わる。人間が環境や境遇の違いによって大きく変化することを譬えた故事『淮南子』(えなんじ)の一つです。
日蓮大聖人は、人の心は悪縁に弱く移ろい易いことを嘆き、
「すべて凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移り易き物なり」(『松野殿御返事』新編1049頁)と説き、
また『立正安国論』にも、 「人の心は時に随って移り、物の性は境に依って改まる」 (新編248頁) と指摘されています。
それにしても移り易きは人の心、凡夫の心ほど悪縁に弱くうつろい易いものはありません。
さて今、時代は末代悪世。表面上は一見華やかでも一皮むけば貪瞋痴の三毒強盛、互いに相食む混濁した時が流れています。この濁悪の世を清く正しく、力強く生きるのは並大抵なことではありません。
だからこそ羅針盤の如き正しい宗教、由緒正しき信仰の実践が求められてくるのです。
宿縁深厚にして文底下種本因妙の妙法に巡り会った私達は、日夜正しい御本尊に正対して信行を積むことができることに深く感謝しなければなりません。どこまでも、水の流れるごとく倦(う)まず弛(たゆ)まず信心に励み、一念無明の迷心を磨き、仏界を湧現して常楽我浄の人生を生き抜くことが大事です。
『一生成仏抄』に、
「深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様にしてか磨くべし。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(新編46頁) と。
お互いに受け難き人界に生を受け、遇い難き妙法に巡り会った法華講の末裔(まつえい)です。
勤 行・唱題の確実な実践で日々躍動し、互いに切磋琢磨(せっさたくま)して折伏のできる足腰の強い講中を築き上げましょう。六月末までには必ず100人の折伏を成し遂げ、広大深遠な仏恩に御報恩申し上げようではありませんか。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年6月1日号より
今月の指針5月号 「安きに居て危(あや)うきを思う 」
「天災は忘れた頃にやって来る」これは明治の物理学者・寺田寅彦の名言です。災害の記憶は、何年たっても風化させるな!という警句でもあります。
昨今、新聞やテレビのニュースでは、連日のように自然災害の悲惨な状況を報じています。「ああ!また今日も世界のどこかで・・・」と、関心を示し同情はするものの、対岸の火事として聞き流す。これが喉元(のどもと)過ぎて熱さ忘れる凡夫の習いです。
大聖人は、『富木殿御書』に、賢人と佞人(ねいじん・愚人)の違いについて、「賢人は安きに居て危(あや)ふきを欲(おも)ひ。佞人は危ふきに居て安きを欲ふ。」(新編1168頁)と説かれています。もともと『春秋左氏伝』(しゅんじゅうさしでん)の言葉です。唐代の名君・太宗(たいそう)は、『貞観政要』(じょうがんせいよう)の中で好んでこれを使いました。大聖人が用いられた御真意は、単に天災に止まらず、人生万般に及ぶ守成(しゅせい)の大事を説く為だったと拝します。
人間はややもすると平穏が続くと気が緩み、油断しがちです。安穏な時にこそ逆境を忘れず、一層気を引き締めて非常事態に備えることが大事です。いわゆる人生の危機管理です。とりわけ正信を持つ私達は、平穏にあっても「蟻の一穴(いっけつ)」の戒めを常に忘れてはいけません。謗法厳戒は信心の要です。知らず知らず身に染(し)む懈怠(けたい)・慢心等の十四誹謗の点検を常に怠らない、それが賢者というものです。
末法は、「謗法の者は十方の土、正法の者は爪上の土」 表面的には華やかで便利この上ない時代ですが、謗法と正法との見わけもつかず、無邪気に生きる人の姿が巷に溢(あふ)れています。そんな時代に生まれ合わせた私達は、値い難き妙法に巡り会った法華講のかけがえのない同志です。「不染世間法如蓮華在水」(ふせんせけんほうにょれんげざいすい)の経文を命に刻んで、謗法に染まらず、破邪顕正の折伏に生きる使命があります。お互いに不退転の信心を貫き、常寂光の世界を目指して広布に汗を流してまいりましょう。
今月は、松葉谷法難から約八か月後、「まだ生きているのが不思議」という何とも理不尽な理由で大聖人が伊豆流罪に処せられた五月です。この時大聖人は、法華身読(ほっけしんどく)を喜ぶ一方で、謗法の逆徒に罪を作らせることを嘆かれています。この広大無辺な大慈大悲に深く思いを馳せて、常に声を掛け合い、一意専心折伏に挑(いど)んでまいりましょう。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年5月1日号より
今月の指針4月号 「二辺の中には い(言)うべし 」
四月は、立宗宣言の月。今から772年前の建長五年四月二十八日の朝まだき。清澄寺の嵩(かさ)が森に粛々と進み、その頂に決然と立たれた蓮長(日蓮大聖人)は、東方太平洋を望んで日の出を待ちました。やがて遥か海上に旭日が輝き出でて走り抜けたその瞬間、蓮長は「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経」と、雄渾な題目を宇宙法界に向かって朗々と唱え出だされたのです。
果たしてこの題目こそ、末法万年の闇夜を照らす大光明、末代悪世の一切衆生の苦悩を断破する大良薬、古今未曾有独一本門の題目だったのです。
これに先立つ約一か月前の三月二十二日から二十八日の早暁にかけて大聖人は、清澄寺の一室にこもり、今後一身を賭して題目を弘通する為の深い思索を重ねられました。もし一言でも唱え出せば、我が身に降りかかる大難は火を見るより明らかです。それに対する不退転の覚悟を固められた御内証の宗旨建立を経て、いよいよ四月二十八日の立宗宣言の第一声となったのです。
それから二十年後、佐渡で著された『開目抄』に、この時の一大決意が披歴されています。即ち、「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきに に(似)たりと思惟(しゆい)するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。」(新編538頁)と。
示同凡夫・日蓮大聖人の心の葛藤が手に取るように拝せます。難を恐れ、反発に怯(ひる)めば、不知恩と無慈悲の誹りを避けることはできません。「言うか、言わないか」この二者択一を迫られた時、大聖人は「二辺の中には い(言)うべし」と決断されたのです。
私達は、皆一様に「白烏の恩」によって妙法に巡り会った地涌の同志です。この世に充満する黒烏(謗法)の人々を折伏することが真の報恩です。遥か772年前における立宗宣言前夜の宗祖の御胸中に深く思いを馳せながら、難を恐れず、いよいよ地涌の使命に燃えて、折伏弘教の駒を進めてまいりたいものです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年4月1日号より
今月の指針3月号「鬼子母神」(きしもじん)
釈尊布教の主舞台となったインド・王舎城(おおしゃじょう)。そこに夜な夜な現れて、人の子をさらっては食い、わが子にも食わせて喜ぶ女の姿がありました。人々はこれを鬼と呼び、五百人もの子供を産んだことから鬼子母神と呼んで恐れました。最愛のわが子を奪われた人々の悲しみは計り知れません。
これを憐(あわ)れんだ釈尊は、ある日、鬼子母神の留守宅から五百番目の愛児を鉄鉢で覆(おお)って連れ帰りました。出先から戻った鬼子母神は、最愛のわが子がいないことを知るやいなや、気が狂わんばかりに泣き叫びながら国中を探し回り、探しあぐねた末に釈尊に救いを求めたのです。
「五百人のなかのたった一人ぐらい、どうってことないではないか」と、仏は優しく問いました。「とんでもありません!どんなに大勢いたって可愛さに変わりがありません。もしこの子が見つからなかったら・・・。」と激しくかぶりを振って泣き崩(くず)れたのです。
「たった一子でも失う悲嘆は、はかり知しれないものなのだ。僅(わず)か一人、二人とはいえ、かけがえのない子供を失った親の悲嘆がわかるか?」と、諄々(じゅんじゅん)と諭(さと)しました。釈尊が衣の袖から愛児を引き出して返してあげると、奪うように受け取った鬼子母神は狂喜乱舞、その瞬間ハッと我にかえり、長い迷いから目が覚めて改心したのです。
鬼のような女性にも強烈な母性は具わっています。今仏縁に触れて鬼性が消え、餓鬼界に具わる仏界が輝き、やがて五戒を受持する正法守護の善鬼となったのです。御本仏大聖人は、三大秘法の御本尊に諸天善神の一つとして、その子・十羅刹女とともに勧請し、鬼子母神は今 末法救済の一翼を担っています。
人は皆、親を選んでこの世に生まれることはできません。だからなおのことその因縁を大事にしなければなりません。『刑部左衛門尉女房御返事』(ぎょうぶさえもんのじょう にょうぼう ごへんじ)に、「親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。」(新編1504頁) と。限りない無償の愛、それに対する孝養心の乏しさを厳しく指摘されています。三月は春彼岸、父母孝養の絶好の機会です。『上野殿御返事』云く、「父の恩の高き事須弥山も猶(なお)ひき(低)し。母の恩の深き事 大海還(かえ)って浅し。」(新編922頁)
山より高く海より深い両親の大恩に思いを馳せて、孝養を尽くし報恩の誠を捧げたいものです。先立った親には妙法の題目を認(したた)めた塔婆を供養し、健在な親には題目の功徳を手向けて健康長寿を祈る、これに過ぎる孝養と報恩はありません。最善の信心を持(たも)って最高の人格を磨き、人の道を弁(わきま)えて更なる努力精進を重ねてまいりたいものです。
清涼寺 寺報 「従藍而青」
今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師
2024年3月1日号より