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人として生まれて来て「転重軽受の法門」

法華経の結経・観普賢経の「若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え」の前には「一切の業障海は、皆 妄想より生ず」と…。即ち一切の宿業、罪障、自分の過去世から持ってきた処の罪業・罪障、そういうものは海のように多量と説かれております。


 しかし、今世で己の宿業を打開できるとなると、本当にこれは有難いものです。 我々は過去遠々劫から、様々な境界・様々な人生で生まれては死に、また生まれては死にして、今日人として生まれて来ているものです。


 人それぞれ皆違った境涯を歩いております。一人として同じ人はいません。 皆それぞれに過去の人生が体に付けられていて、「私は人間に生まれて何回生」とか「今回初めて人間に生まれました」とか「いや、何度も人間に生まれ正法を護持しています」とか、そういうのが判れば、生きていく上で謙虚になり、反省も出来でしょうが、そうはいかない。


 生まれた途端、無意識の中で現世初めて生まれたとの思いから、それぞれが気ままに生きています。 処がそうじゃない。過去から何度も何度も生まれてきては、場合によっては、正法に巡り合える人もいるだろうし、場合によっては、罪障を作って長い間 三悪道に堕ちて、やっと今回「また人として生まれて来た」という事もあり得るかもしれない…。 そういう人は、まだ過去の謗法の罪が、習気・罪障として残っているとも説かれています。 それを今世でもって、正しい仏法の修行をする事によって、軽く受けていると…。


 涅槃経の「転重軽受の法門」には、本来重く受けるべきなのに、この妙法の経力によって軽く受ける事となると説かれています。


 従いまして、今日我々が正法弘通の為に常々唱題を重ねている事は、自身の罪障消滅・家内安全は元より、自他共に安穏なる国家社会を願う処にあります。 その為にも唱題をもって、その喜びと功徳を感じて頂きたいものであります。


 本来自身の生命に宿業として具わっているものが今、出ているだけですから、出てくるものに対して何だかんだ…と。 「あの人の所為で…、私は悪くない」等と。そうでないんです。 すべて自身の生命に宿っている・具わっているものが、今、妙法護持の功徳力によって、今世で軽く現れているものであります。 自分自身が持っているものが今、出て来ているのです。 今世に出たのであれば、よしこれはチャンスだと、歓喜をもって唱題をして、その歓びで折伏をして、自らの宿業を打開していこうと…、その唱題が大事なんです。 どうかそういう中で、決して今自分の起きている色んな問題に対して、何も悔やむ必要はない。


 でもって「よし宿業を打開できるぞ!」という強い生命力を涌出させる為にも、歓喜ある唱題・折伏に頑張って、宿業を打開して頂きたいと思います。


<御住職御指導より 2014年9月7日 清涼寺にて>

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