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​住職法話

​美畑山清涼寺住職 石橋頂道御尊師の法話を紹介

今月の指針 4月号「永遠は一念の中にあり」

原因のない結果はありません。

しかし物事の原因がわからない時に、私達は、結果だけを見て「不思議だ、不思議だ」と叫びます。

しかし凡眼凡智には見えなくても、因果の道理は厳然と具わっているのです。

私達は、人の眼をごまかすことはできても因果の裁きを免れることはできません。

すべての物事は、三世を貫く因果の道理に貫かれています。げに恐ろしきは因果の道理、仏眼を恐れよ!です。


 因果を説かない宗教、たとえ説いても曖昧にしか説かない宗教は、外道です。

日蓮大聖人は、膨大な宗教の勝劣浅深を正しく判断する方法として、五重相対を説かれました。

その最初が内外相対です。そこで因果を説かない宗教を外道と選別したのです。


 『開目抄』に、

「過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし。」

    (新編524頁)

とあります。

三世の因果を無視した不自由窮まりない姿が説かれています。

過去の命を因として現在の果があり、それが因となって未来の生命へ繋がっていく、これが三世兩重の因果を貫く正しい生命観であり、生命の真実の相(すがた)です。

現在の自分の姿は、過去の業因の結果に他ならず、未来の自分も現在の命の中にあります。

三世を見据えた人生こそ、人間としての正しい生き方の基本であることを忘れてはなりません。


 ところで三世永遠の生命と言っても、詮じ詰めれば瞬間の命の連続です。

一瞬一瞬の生命の中に過去・現在・未来の全ての生命が含まれています。

御書には、

「南無妙法蓮華経は三世一念なり。」

    (『御義口伝』新編1801頁)

と説かれています。

瞬間の一念に永遠に崩れない幸せを築く方法は、三大秘法の御本尊への絶対の信心以外にありません。

御本尊に向かって真剣に題目を唱えれば無始の罪障を消して宿命転換し、永遠に崩れることのない不動の境界を確立することできるのです。


 四月といえば立宗宣言の月です。

激しい葛藤の末に、不退転の決意で法界に放たれた末法の闇を突き破る一大宣言でした。

大聖人の末弟に連なるわれら法華講は、その精神を今に受け継ぐ地涌の眷属です。

更なる奮起を誓い、自行から化他に及ぶ悔いなき精進を重ねてまいりましょう。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2023年4月1日号より

今月の指針 3月号「根源を忘れるな!」

現代は、万事、便利で快適な安・近・短がもてはやされる軽佻浮薄(けいちょうふはく)な時代です。

物で栄えて心で滅ぶ、そんな時代に生きながら、目先のことや上辺だけに目を奪われて本質や根本を見失い、予期せぬ躓(つまず)きや失敗に繋がることも少なくありません。


 大聖人は、『華果(けか)成就御書』に、

「たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流れかは(乾)かず。火はたきヾ(薪)か(欠)くればたへぬ。草木は大地なくして生長する事あるべからず。」

    (新編1225頁)

と仰せです。

根が深ければ、幹が伸びて枝葉が茂る。水源の豊かな川の流れは尽きることがありません。

薪が尽きればやがて火は消え、枯れた大地に豊かな収穫は望むべくもありません。

根の深さ、水源の豊かさ、肥沃な大地、これが大事なのです。


 草原に一陣の風が吹き抜けると一斉になぎ倒される草木のなかで、根の強(勁)いものだけが立ち残る。

正しい信心で心身を鍛え、幾多の風雪に耐えて社会に深く根を下ろしてこそ、堅実で豊かな人生が開かれていくのです。


 さて暦の上では春、弥生、三月です。厳しい余寒の中にも、春の気配を感じます。

大地の恵みを吸い上げながら風雪を凌いで来た山野の草木が、元気に春を告げる姿には頭が下がります。

長引くコロナ下、四季を選ばず広布の使命に燃えて常唱題し常折伏に励む同志の姿は、敬服に値します。

広布に停滞はありません。声を掛け合い励まし合って前進してまいりましょう。


 どこまでも私達の信仰の根源は、総本山大石寺に まします戒壇の大御本尊です。

末法の御本仏・日蓮大聖人が魂魄(こんぱく)をとどめられた一閻浮提第一の御本尊です。

総本山中興の祖・日寛上人は、

「無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)あり、故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則(すなわ)ち祈りとして叶(かな)わざることなく云々。」

    (『観心本尊抄文段』)

と、偉大な功徳を明示されています。

私達は、いついかなる時もこの根源を忘れてはなりません。

この大御本尊を人生の根本に据(す)えて、日々の勤行・唱題に懈怠(けたい)なく信心の根を深く張れば、物心両面にわたる豊かな人生が約束されるのです。

「決めて、祈って、動く」。この折伏の方程式を改めて肝に銘じ、自行を満たして折伏化他に果敢に挑んでまいりましょう。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2023年3月1日号より

今月の指針 2月号「謗法を悪(にく)んで、人を悪まず」

自転車の轍(わだち)は、せいぜい3センチ余り。

だからといって、3センチしかない道路を走ることはできません。

何倍もの広い道幅あるからこそ細い轍で走ることができるのです。


 人間は、ひとりで生きていくことはできません。多くの人や物に助けられ、支えられて生きています。

「人」という漢字は、人が支え合う姿だとか。そこに知恩・報恩の大切さもあります。

仏教は、人間が他のものに依存して生きる縁起の道理を説いています。

そのうち報恩は特に大切で、それは親の恩・国主の恩・一切衆生の恩、そして三宝の恩の四つです。


 歯が抜けて噛(か)み締める親の恩。

山よりも高く、海より深い両親の恩は、わが子を持ち、年老いて実感する無償の愛です。


 国土社会から受ける有形・無形の恩恵も計りしれません。そこに社会貢献の大切さもあります。

国家社会は、人と人との繋がりで成り立っています。一台の自動車は勿論、たった一度の食事、たった一枚のシャツ、どれも無数の人手がかかっています。

一切衆生の恩を瞬時も忘れてはならない理由です。

ましてその九割九分が、妙法とは無縁の人々であることも見落としてはならない大事な視点です。


「罪を憎んで人を憎まず」とは、孔子の言葉です。

私達にとっては、「謗法を悪(にく)んで、人を悪まず」の精神です。

例え妙法を持たない人でも、直接・間接に世話になっている無数の人々に対して感謝の念を懐き、礼節を尽くし、信頼を築くことの大切さを忘れてはなりません。

その上で相手の真の幸せを願って実践する折伏が尊いのです。


 大聖人は、『上野殿御消息』に、

「昔は一切の男は父なり女は母なり。然(しか)る間 生々世々(しょうじょうせぜ)に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべきなり」

    (新編・927頁)

と、大乗菩薩の精神が説かれています。

下種三宝を信奉する私達の信心は、自身の成仏は当然として、両親・国家社会・一切衆生の恩に正しく報いる信心であり、その真の報恩は折伏に尽きることを銘記すべきです。


 たった3センチ余りの細い轍。

その上を颯爽(さっそう)と走る自転車は、広いゆとりの道があるからこそ悠々と走ることができるのです。

お互いに私達は、宿縁薫発して信心に励む妙法の体現者です。

正しい信心を根本に、知恩・報恩の実り豊かな日々を過ごしながら、悔いなき折伏躍動の日々を過してまいりましょう。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2023年2月1日号より

今月の指針 12月号「言葉を慎んで徳を養う」

人の耳は二つ、口は一つです。

話は控えめにして人の話をよく聞きなさい、という戒めかもしれません。

中国の古典『近思録』(きんしろく)には、

「言語を慎しみて以て其の徳を養い、飲食を節して以て其の体を養う。」と。

私は、「喋り過ぎる」、「もっと人の話を聞いた方がいいよ。」と、よく忠告されます。

ついつ喋り過ぎる悪い癖に反省しきりです。


 実りある会話を楽しむためには聞き上手になりたい。

でも聞き上手同士では話が弾まず重苦しい雰囲気になることもあります。

口の重い相手には、巧みに話を引き出す努力も必要です。

いずれにしても過不足のない話のキャッチボールができれば、話に花が咲きます。


 ところで私達は、朝から晩までひとことも話さないで過ごすことはできません。

しかし一旦口から出た言葉は、もとに戻りません。

だから言葉は大切なのです。


 さて仏教には、口にまつわる四つの悪業が説かれています。

平気で嘘をつく妄語(もうご)、心にもないきれいごとを言う綺語(きご)、人の悪口は悪口(あっく)、二枚舌の両舌(りょうぜつ)、この四つです。

御書には、「わざわい(災)は口より出でて身をやぶる。」(『十字御書』新編1551頁)とあり、

『論語』にも、「九思一言」とあります。

普段から口を整えて言葉を選び、人を悲しませたり、傷つけたりすることのないよう努めることが大事です。


 『御義口伝』に、

「功徳とは即身成仏なり、又六根清浄なり」 (新編1775頁)と。

唱題で舌根を浄め、口を幸せにして、美しい言葉、優しい言葉を発するよう常に心掛けていきたいものです。

文は人なり、言葉も人なりです。


 「折伏躍動の年」を迎えるに当たり、爽やかな勤行・唱題で命と言葉を磨いて折伏と育成に躍動し、大いなる飛躍を期したいものです。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年12月1日号より

今月の指針 11月号 「一三三三年」

西暦1333年(元弘3年)。

 それは、日本史上の大きな転換点となった年です。

武家政権が司(つかさど)る鎌倉幕府が衰退して遂に滅び、約140年ぶりに天皇中心の政治体制に移行したからです。

その建武の新政も、新政とは名ばかりで、争乱に明け暮れた混迷の時代の幕開けでした。

戦乱に巻き込まれて犠牲になった民衆の数は計り知れません。

正に末法濁悪の様相そのものです。


 ところでわが宗門にとってこの年は、2月に第二祖日興上人が霊山に旅立たれ、宗内は深い悲しみに包まれておりました。しかし唯授一人の法統は連綿と第三祖日目上人へ継承され、そこにはいささかの乱れもありません。


 ややもすれば沈みがちな空気の中で一宗を統率遊ばされる日目上人の胸中に去来するものは、広布の停滞はいささかも許されないという強い使命感と責任感でした。

師弟相対の信心に純真に励む僧俗も、この試練を乗り越え、更なる広布への前進を誓い合ったに違いありません。


 そんな矢先に始まったのが建武の新政です。

混迷の時代の幕開けとはいえ、天皇政治に対する期待感は否応なく高まったのです。

顧みれば、大聖人の三度の高名も日興上人の国家諌暁も、謗法にられた権力者や仏法に盲目な民衆に受け入れられることはありませんでした。

日目上人はこの時とばかり、高齢を顧みず、病身を推して決死の上洛を思い立ったのです。


 しかし74歳の御高齢は大きな壁となり、永年の布教と度重なる国家諌暁の無理から来る衰弱は、如何ともしがたいものでした。

遂に御自身42度目となる天奏の途次、1333年(元弘3年)11月15日、寒風吹きすさぶ美濃垂井で寂光の宝刹に御還りになられたのです。

その壮絶な御最期は、ひたすら御遺命のままに広布に一身を擲(なげう)たれ尊極の御生涯でありました。


 勤行第三座の観念文には、日目上人を「一閻浮提の御座主」と尊称いたします。

それは、「全世界の民衆を指南し、化導する貫主上人」という意味に他なりません。

その尊崇の念は、いつしか「代々の御法主上人はすべてこれ日目上人なり」、「代々の御法主上人は目師の座に住す」と言い伝えられて現在に至っています。

これも偏(ひとえ)にあの壮絶な御最期に由来するものと拝します。


 宗門の末弟に連なる私達は、日目上人が垂井に雪中の留められた広布への至心を我が命に刻み、いよいよ折伏弘教の使命を果たしていかなければなりません。

互いに奮い立ち、更なる広布に向かって邁進してまいりましょう。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年11月1日号より

今月の指針 10月号 「鶴林」(かくりん)

仏の死を鶴林というのは、沙羅林(さらりん)の下で釈尊が入滅されたとき、その床に沙羅の木が垂れて棺を覆い、あたかも白い鶴が舞うようだったことに由来しています。

白色が成仏の相といわれるのもこれと無縁ではありません。


 釈尊と永訣(えいけつ)の時が訪れて弟子や信徒の胸に去来したものは、自分の親以上の優しさと暖かさをもって接してくれた慈悲深い温顔をこれを限りに見られない、という悲痛な思いでした。


 苦しい時も楽しい時も、悲しい時も嬉しい時も、死の恐怖に怯(おび)えた時も、いつも傍で癒(いや)し、激励してくれた釈尊。

その偉大な人がいよいよ涅槃(ねはん)に入る。

人々は天を仰ぎ、地に伏せ、またある者は地に頭を打ち付けて慟哭(どうこく)しました。

泣いて、哭いて、泣き叫ぶ人間の悲しみに諸天が感応して、沙羅林が燦然(さんぜん)と白く変わったのです。


 自分が今死んだとしたら果たして何人の人が悼(いた)み、心から涙を流してくれるだろう。

打算ではなく、真心から霊前に線香を手向けてくれる人は何人いるだろうか。

「40歳になったら自分の葬式の事を考えておけ!」とある本で読んだことがあります。

「そうか。とうとうあいつも逝(い)ったか!」と聞き流されるような人生では、何と虚(むな)しく悲しいことでしょう。

棺の蓋(ふた)が閉まって人間の評価が定まる。

そうしたことに思いを馳(は)せるのも、人生の今を充実させる上で大切なことではないでしょうか。


 翻って、今月は御会式の月。一切衆生の苦しみを一身に背負って未曽有(みぞう)の大難を忍ばれた大聖人は、私達にとって主人のごとき守護であり、師匠のごとき羅針盤であり、両親のごとき無償の愛そのものです。


 三徳兼備の大聖人が、いよいよ御入滅の時を迎えると聞いた弟子檀那の戸惑い、悲しみ、慟哭、それは想像を絶するものであったことでしょう。

しかし病を推して渾身(こんしん)の力を振り絞った『立正安国論』の御講義を目の当たりにした弟子檀那の悲しみは、瞬(またたく)く間に不退転の広布の決意に変わったのです。


 「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。」

の末文に御一代の御化導が凝縮されています。

それは私達に対する不朽の御遺誡(ごゆうかい)そのものです。


 御会式の月を迎え、心新たにこの御文を互いの胸に深く刻みましょう。

広大無辺な大慈大悲に浴しながら一層真剣に自行を磨き、慈悲心を発揮して折伏・育成に精魂を傾けてまいりましょう。



清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年10月1日号より

今月の指針 9月号「行きたように死んで行く」

孔子は、死について尋ねた弟子・子路に対して、この世のことさえよくわからないのに、あの世のことなど分かるはずがないではないか、と答えたといいます。

現実主義者・孔子の面目躍如といったところです。


 しかし、こうした現在に重きを置いて死を後回しにする考えを大聖人は、厳しく破折されています。

『開目抄』に、

「過去を知らざること凡夫の背を見ず、未来を鑑みざること盲人の前を見ざるがごとし。」

   (新編524頁)

と。

背後の見えない生活は、何かと不便、目が不自由だったら小さな石にも躓(つまず)きます。

過去世に目を背け、来世にも無関心を決め込む生き方はそれと同じです。

仏教は、永遠の生命の上に、三世両重に跨(また)がる因果の道理を説いています。

そこに仏教の優秀性があります。


 過去の因を知りたければ、現在の果を見よ、未来の果を知りたければ、現在の因を見よ。

因果は三世永遠に続きます。

過去を見据(みす)え、未来を展望しながら、足下の現実をしっかり見つめて歩くところに素晴らしい人生が開かれていくのです。

信心修行はそのためです。


 「先づ臨終のことを習ふて後に他事を習ふべし。」

   (『妙法尼御前御返事』新編1482頁)

と。

人は死を恐れる、なぜなら死が怖いからです。

誰も経験したことのない未知の世界、正に未知との遭遇です。

この世に生を受けた以上避けることのできない死。

しかもそれは老少不定の儚(はかな)い命です。

明日生きる保証は誰にもありません。

だからこそ大聖人は、先ず臨終のことを習え、と教えているのです。


 臨終は一生の集大成。人生の総決算です。

死を先送りして、目先の享楽に心を奪われれば、やがてツケが回って最期に悔やむのは自分です。

まさに後悔は先に立たずです。

死に臨んでも、少しも心乱れず、成仏を信じて疑わない臨終正念の境涯、悔い無き人生を全うするために、妙法を持ち、真剣に勤行唱題し、広布に生きる価値ある人生が求められてくるのです。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年9月1日号より

今月の指針 8月号「平凡は非凡」

「自分は平凡な一生を送れればそれで充分。

特定な宗教を信じて信仰に励み、自分を磨き、向上しようなどとは思わない。」


 こう言われると、取り付く島もありません。

一生平穏に暮らせるなら、それもむべなるかなというものです。

しかし実際は、そう甘くはありません。

現実は、それを容易にさせない五濁爛漫の世界が広がっています。


 私達は一人で生きていくことができない社会的動物であり、まして無始以来の罪障を命に刻む荒凡夫です。

それらが縁に触れて病気や不慮の事故、自然災害等となって突然襲ってきます。

受験の失敗や事業の、恋の破局や人間関係の破綻など様々な困難は後を絶ちません。

人生は晴れの日ばかりではなく、強風に煽られ、大雨に激しく打たれる日もあるのです。

そして人生の最期、それはいつ訪れるか誰もわかりません。


 加えて高度に発達した現代は、便利な反面、危険や重圧が充満する超ストレス社会です。

そんな中で人間らしく、しかも平穏に暮らすこと自体簡単ではありません。

そのように考えると、風雪に耐え、悪縁に紛動されずに「平凡に生きる」ことの何と難しいことか。

平凡とは非凡の異名、平凡に生きること自体が非凡なのです。


 仏教で説く現世安穏の境涯は、単なる無風状態の意味ではありません。

厳しい現実と対峙しながら、悠々とそれを乗り越える克服をいうのです。

その源泉は妙法の力です。

適切な判断力、果敢な行動力、勇気と責任感、それらを支える力は、妙法の正しい信仰から生まれるものです。


 湖面をスイスイ気持ちよさそうに泳いでいる白鳥も、水面下では両足を懸命に動かしています。

平凡を望むからこそ、真摯な信仰を通して社会の荒波を乗り越える必要があるのです。


 『四条金吾殿御返事』にいわく、

「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり。」

   (新編991頁)


 一見平凡に見える非凡な人生は、末法の時に適った三大秘法の大御本尊を根本とした信心の実践以外に無いことを改めて強く確信したいものです。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年8月1日号より

今月の指針 7月号「蜘蛛の糸」

ある時 釈尊 が、極楽の蓮池に浮かぶ蓮葉の間から、水面下に深く広がる地獄の様子を御覧になると一人の男の姿が目に止まりました。

それは、悪事の限りを尽くして地獄に堕ちて藻掻き苦しむカンダタの姿でした。

しかしそんな男でも、たった一度だけ一匹の小さな蜘蛛を見つけて踏み殺さず、「待てよ、これも小さな命」と逃してあげたことがありました。

釈尊は、その僅かな善行の報いとして地獄の苦しみから救い出してあげようと、一本の蜘蛛の糸を地獄へ下してあげたのです。


 遠い天空からゆっくりと下りてくる一筋の細い蜘蛛の糸。それを目ざとく見つけたカンダタは、藁をも掴む思いでこれに縋りつき、夢中で上へ上へと昇っていきました。

血の池は遥か下方に沈み、針の山もだんだん小さくなっていきます。


 「しめ、しめ、意外と簡単に脱出できるかもしれない。」などと、虫のいいことを考えながら足もとを見ると、糸の先には、まるで蟻の行列のように無数の罪人が一緒にのぼってきているではないか。

こんな細い糸が、その重さに堪えられるはずがない・・・。


 もしこの糸が切れたら、もろともに地獄へ逆戻ることになってしまう。

そう考えると、とっさに「こら罪人ども!この糸は俺のものだ。

最初に掴まったのは俺だ、降りろ!みんな早く降りろッ!」と、喚いたのです。

その瞬間、糸は「プッツーン」と切れて、独楽のようにくるくる回りながら瞬く間に暗闇の中へ堕ちていったのでした。


 一部始終を御覧になっていた釈尊は、悲しそうな御顔をなさりながら、

「無慈悲とはこういうもの。げに怖ろしきは慳貪の罪!」と、静かに呟いたのでした。

   (出典:芥川龍之介『蜘蛛の糸』)


 宗祖日蓮大聖人は、

「一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。」(『諌暁八幡抄』新編1541頁)

と、順逆二縁の衆生を救う広大無辺な大慈悲の御境界を披瀝されています。

毒気深入した末法の衆生をいかにして五濁の苦しみから救い出すか、その御心中はつねにとめどなく甘露の涙が流れていたのです。


私達は、その大慈大悲に浴して今を生きています。

不知恩の誹りを受けないために、慳貪の罪を恐れ、いよいよ報恩感謝の炎を燃やして、自行化他の信行に徹することが大切です。


清涼寺機関誌「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年7月1日号より

今月の指針 6月号「志は満たすべからず」

『礼記』(らいき)に、

「傲りは長ずべからず。欲は従(ほしいまま)にすべからず。志は満たすべからず。楽しみは極むべからず。」

とあります。


 傲りは驕慢(きょうまん)、十四謗法の筆頭です。自信と確信は生きる力、慢心は衰退の源です。

「慢は山の如し、雨水止まらず」。山上に降った雨が瞬く間に下方に流れるように、慢心は積んだ功徳を洗い流してしまいます。

信心の難敵である驕慢を絶対に看過してはなりません。


 貪欲(どんよく)は、放置すれば身の破滅を招きます。

少欲知足(しょうよくちそく)は、貪欲を抑える心のコントロールです。

欲望も志も満たされないからこそ別の志が立ち、新たな発心が芽生え、更なる進歩に繋がっていくのです。


 もし志が簡単に達成できたとしたら安心が生れ、過信を生み、魔がつけ入って躓き(つまずき)のもとになります。

楽しみも極めれば侘びしさ(わびしさ)が残り、酔い覚めの空しさを味わうことになります。

人間にとって、志というものは満たされないからこそ、更なる高みを目指して努力を重ねることができるのです。


 日蓮大聖人は、

「深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず(おこたらず)磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり。」

   (『一生成仏抄』新編46頁)

と御教示です。

信心とは、常に前進して自己の成長を願うもの、進まざるは退転です。

魔は虎視眈々(こしたんたん)と油断の隙を狙っています。

三大秘法の御本尊を固く信じて、倦まず弛まず(うまず たゆまず)勤行・唱題に励んで仏性を磨く、そこに何ものにも侵されない瑞々しい命が輝き続けることを忘れてはなりません。


 自行の着実な実践が化他の力を生み、折伏の意欲が沸き上がって弘教の実践に繋がります。

「自行満ちて化他あり。」皆様の充実した日々を心からお祈りいたします。


清涼寺 寺報 「従藍而青」

今月の指針 指導教師 石橋頂道 御尊師

2022年6月1日号より

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